厚切りジェイソン、あるいは癇に障る海外メディアの必要性
2017年3月17日(金) 14℃ 晴れのちくもり
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厚切りジェイソンというアメリカ人のコメディアンがいる。四季なんか別にクールじゃないというような、日本人の癇に障るようなことを言って耳目をひいている。クールジャパンなどという公主導の馬鹿馬鹿しさには辟易としている時分なのだけれど、あの感じを見ると、癇に障ってしまう。
日本人は外国人(特に西洋人)の語る日本論が大好きだと言われる。
たしかに外人が日本のことをどう思っているのかが来なるという意味では、僕もその同類である。しかし褒めるのも貶さすのも、どちらも違うと感じるようになってきた。これも随分、日本論を随分読んできたからなのだろう。日本論は大体この誉めるタイプと貶すタイプに分かれている。
当たり前のことながら、真実は中間にしかない。
ジェイソン君の発言は、大きく分ければどちらかと言えば、貶す側の陣営、ニューヨークタイムス的流れの中にある。(政治的党派性のことを言っているのではない。)僕が「癇に障った」のは、そんな外国人日本貶し派の手垢のついた芸風は一つも面白くないということだった。
しかし案外単純で、貶されると腹が立つと言う方が正直かもしれない。
日本の政局がポツポツとFTやNYTに現れるようになってきている。日本の政局なのだから、日本のメディアに依拠できるはずなのだが、逆に、センシティブな問題になればなるほど、海外メディアの動向が気になる。正確性というよりは、日本のメディアよりは、相対的に日本からコントロールされていない見方を求めてのことである。
311の時に、外国メディアの動向を日々チェックしたのを思い出す。
僕にとっての海外メディアというのはどうも外国のことを知りたいからというよりは、日本が自分たち以外の第二、第三の眼にどう映るかを知るために必要なもののようなのだ。
海外メディアに日本が登場する頻度が中国やインドなどに比べれば、十分の一以下程度になってから随分経つ。すなわち、「褒める」流派の日本論がかなり減少してきているということなのだろう。
トランプ政権就任直後の訪米で、安倍首相関連の記事が、若干、海外メディアを賑わしたが、次は今回のスキャンダルが少しずつ取り上げられ始めている。海外メディアでの露出度においても安倍一強時代ということに、なんとも言えない気持にさせられる。
今回のナショナリズムの問題は、安倍首相にとってはもっとも厄介な問題だ。粗雑なナショナリズム的気運の中で、防衛省の隠蔽に現れるシビリアンコントロールの問題、官邸支配の中で生じる取り巻き政治の危険等、彼が、「一子相伝の政治指南テキスト」を有しない未到の領域である。
安倍政権がおそらく一番、転びやすい地形を歩きはじめている。
安倍政権のゆるみあるいは蹉跌に伴う、政治の不安定化が、これまでの彼の評価できる実績の部分まで台無しにしてしまうことのないことを心から望む。彼は本領である「機会主義者」に戻るべきだ。それ以上を多くの国民は期待してはいない。
ことここに及んでは、海外メディアが「癇に障る」などとは言ってられない。自分の普通の暮らしの防衛なのだから、むしろ、条件反射的に気分が悪くなる発言にこそ耳を傾けるべき時なのだろう。
この「ナショナリズム」の領域は、リアリストである大多数の国民にとっても妥協のできない危険領域であり、安倍晋三という政治家の人気だけで押し切れるものではないということを信じたい。
自分たちが置かれている政局の微妙さに対する与党自民党の見識を期待する。
さらに野党民進党、社民党等いわゆるリベラル勢力及び日本の既成マスコミが言論の自由ということに対して本来持つべき責任感と強い覚悟を期待してやまない。
安倍政権の取り巻きたちが、参考人招致から証人喚問へと切り替えたという点を、共謀罪との関連で懸念する朝日新聞の記事がある。
『<証人喚問> 国会の国政調査権を定めた憲法62条に基づく制度。うそをついた場合は、議院証言法に基づき国会から告発され、偽証罪(3カ月以上10年以下の懲役)に問われる。正当な理由なく、出頭や証言を拒否しても禁錮刑や罰金を科せられる。』
偽証罪が言論抑圧のために利用されるリスクがあることを懸念する声が高くなってきている。
ここからは、少し、「癇に障る」ことも多い、「貶す派」海外メディアの重要性が増してきたのかもしれない。
たしかにジェイソン君の言っていることは正論ではあるのだから。
黄禍論ではなくラッダイト?(トランプVs経済学)
2017年3月16日(木)14℃ 晴れのち曇り
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トランプ大統領は、自分の中核を占める支持者層である、米国が競争力を失った伝統的製造業が集中する地域に住む、低学歴、白人労働者層に雇用を生み出さなければならない。それも早急かつ目に見える形で。
そのために企業を直接に恫喝して、特定地域に雇用を「移動」させるという荒業を繰り返すと同時に、上記の労働者層の職を奪ったとして、メキシコ、中国などの外国を敵視する発言を繰り返している。
彼の主張が正しいかどうかは別として、実際、トランプは本当に彼の公約を実現できるのだろうか。
トランプ対経済学の戦いは続く。
経済学は、トランプ大統領の思い付きによっては、本当に彼の支持者たちに雇用を取り戻すことはできないと一様にすげない。
さらに彼らの雇用は、供給面で、海外からの挑戦を受けているというよりは、需要者である米国企業から求められなくなってきているという赤裸々な事実をつきつける。
(その意味では、彼らが「黄禍論」ではなく「ラッダイト運動」に走るならばまだしも理解できるのだが。と余計で危険な脇道に逸れるのはこのくらいにする。)
本来の雇用を生み出すためには、今、労働市場によって求められるスキルを教育、トレーニングを通じて、労働者が身に着けるしかないのだと。しかしこれはこないだのマンキュー教授ならずとも、言うは易く行うは難しであることはよくわかる。
雇用を生み出すためという目的が教育、特に高等教育の現場で前面に現れるようになって久しい。
大学自らが、自分のアイデンティティを職業訓練の場にせざるを得ない状況に追い込まれている。そしてこれが、文系軽視、理系重視というお定まりの短絡思考へと繋がっていく。
本日の日経にフィナンシャルタイムスからの転載の教育に関するコラムがあった。
米教育改革 労働力育つか
グローバル・ビジネス・コラムニスト ラナ・フォルーハー
http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20170316&ng=DGKKZO14118140V10C17A3TCR000
『米国には2種類の労働市場がある。博士号を持つ人向けの豊富な求人と、単純労働しかできない人向けの、もっと多くの仕事だ。ところが、その中間の仕事があまりない。これは、経済が主に個人消費で成り立つ国に生じる問題だ。
トランプ米大統領は、こうした中間層の雇用を取り戻すと公約し、当選を果たした。だが、トランプ氏がグローバル化の流れを反転させ、技術の進化に伴い仕事の内容がどんどん変わる流れを反転できたとしても、英語対応のコールセンターやプログラミングといった仕事が海外に流出してしまうという米国が今抱えている問題の解決にはならない。つまり、現在必要とされている職業スキルと労働者の間に存在するギャップをどう解決するかという問題だ。』
しかし問題は、人間の能力というものは、促成栽培できないということである。大学は深い意味での人間の形成の場、今後長い期間生きていくための、地力を蓄える場であるという考え方は、現実的ではない、甘っちょろいリベラルアート的戯言だと考える人々からすれば、「聞き飽きた」となるのかもしれない。
『 今進めている仕事に結びつくような教育が目指すのは、1970年代に崩壊した産学協同の取り組みの再構築だ。当時、リベラルな改革派は職業教育に力を入れることは人種差別的で、かつ階級の固定化につながると主張し、この種の教育を廃止に追い込んだ。彼らは、人はみな溶接などより米小説家メルビルを学ぶ権利があると考えたのだ。』
文系としての「甘っちょろい」生活を長年送ってきてしまった身としては、今更ではあるが、溶接というような手仕事への抽象的なあこがれがある。(エリック・ホッファーへの憧れと言った方がいいか)でもやっぱり若い時にメルビルを読む必要性というものに一票入れたくなる。
現代という時代の気質 (晶文選書) | エリック・ホッファー, 柄谷 行人 |本 | 通販 | Amazon
現時点で、需要がある仕事を得るために必要な能力と小説を読み、自らの人生を考えるということを二項対立的にとらえることには違和感がある。
今ある労働市場需要に完全にコミットした自己形成は、こんな変化のスピードの速い時代には、むしろ自殺行為だと思うからだ。
僕が希望する教育とは、世の中の急激な変化の中で、生き残るために役に立つあらゆるもののブリコラージュ(寄せ集め、器用仕事)である。
当然、海の中での生き延びるための戦いの顚末に読みふけることの、今日の意味はわからない。しかしなんとなくいつか役に立つだろうと、背負った頭陀袋にとりあえず、放り入れておくぐらいの軽さで長く続けるのがいい。
コラムの中で、トランプ政権の顧問で、新しい労働力訓練計画を推進するIBMのCEOジニ・ロメッティの活動が紹介されている。
『 この議論が再び浮上している、とロメッティ氏は言う。将来の多くの仕事は、文系や理系の学問と職業スキルという従来の分類の中間に来るものだからだと同氏は説明し、そうした仕事を「(ホワイトカラーでもブルーカラーでもない)ニューカラー」と名付けた。
2年間の準学士レベルの教育を受けて高度に訓練された機械工なら、二流、三流の4年制大学で政治学を学んだ大卒を軽く超える初任給を得られるようになるだろう。
オンライン教育が盛んになれば、4年制の学位を得るために多額の負債を抱え込む必要はなくなる。教育は、個人の必要に応じて細分化されるべきだ。メルビルは自分で読むこともできる。あるいは、ハーバード大学教授による「白鯨」の講義をストリーミングで視聴することもできるし、大人数のオンライン講座に参加してもいい。』
このコラムの中の新しい教育を模索する人の、オンライン教育云々というあたりはどうも浅くて、古臭い大学組織への妙な憧れに縛られている僕には好きになれない。企業人が「偉そうな顔」をして高等教育に口を出すという風情が大嫌いだという僕の頑固な偏見のせいもある。
しかし、ともかく、人間の仕事、生き残りというものは、マニュアルに沿った勉強というよりは、なんとなく気になることをとりあえずやってみるという「たゆまぬいい加減さ」の中で案外身に付くものだというのが実感だ。そしてそれ以外のベストプラクティスはないと断定してもいいくらいである。
安倍晋三の地力が試される時
2017年3月15日(水)10℃ 雨のち曇り
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安倍一強を事実として支えている国民心理は複雑である。
安倍晋三という政治家の能力の多くの部分は岸信介、安倍晋太郎という、一子相伝の巨大な政治テキストに因るものだ。
彼が凡百の二代目、三代目とは違うのは、日本の戦後史の根幹を貫く日本の国としての生き残りの中で磨き上げられた比類ない経験値の集積に対する特権的な近さの故なのである。自らの意志というよりは、宿命がここまで彼を運んできた。
この血縁は、むしろ、外交という面における安倍という政治家に対する国民の信頼を支えている。これが安倍晋三に対する国民の支持の一つの柱だ。
経済に関して言えば、日本にも世界の先進国動向にならって、官僚国家に対する強い不信感がある。スティーブ・バノンのように行政国家、官僚支配の粉砕とまで事挙げする政治家こそいないが、自民党政権の、財務省を代表とする官僚への過度な依存に対する日本人のポピュリズム的不信は静かに高まっている。官邸主導という形で、官僚支配を超えようとする安倍政治に対する心情的支援の二つ目の源泉がここにある。
伝統的な右派、左派という軸ではない、エリート支配に対する下からの反発という意味での日本のポピュリズム心情を安倍晋三という政治家はこれまでうまく吸収してきた。
国民心理などというのはやめにしよう。この二点に関しては、安倍の方向性を自分も受け入れてきた。
しかしここから先は厄介だ。
安倍晋三という政治家が、一子相伝という形で得られる特権的テキストはほぼ使い切られているからだ。
この教科書のない世界では、自らの自助努力と、ここまで築き上げた彼の世界観が試されることになるのだ。
政権維持のための、極右的勢力との安倍晋三固有の関係性は、以前から、政治家としての彼にとっての最大のアキレス腱だと考えてきた。
極右的言説自体を全否定する気はない。世界を見渡しても、それを否認することは、それを野放しにすることと同じだからである。
しかしナショナリズムという厄介な概念を弄ぶには、彼及び彼を取り巻く者たちの、固有の世界観の薄さは致命的と言える。この分野においては、知的インテリの集まりであるニューヨークタイムスなどの既成メディアが全力を賭けて対決しようとするスティーブ・バノンやそれを支えてきた右翼思想の厚みは存在しない。
安倍の極右への「安易なリップサービスであった人材」が、今、国会におけるその振舞において、文字通り馬脚を露し、安倍政権の基盤を揺るがしはじめている。
この領域において、有権者を舐めてはいけない。
『戦後日本に九条が定着したのは、それが新しいものではなく、むしろ明治以後に抑圧されてきた「徳川の平和」の回帰だったからではないか。だから、こういってもいいのではないか、と思います。内村におけるキリスト教が武士道の高次元での回帰であったように、戦後の憲法九条はいわば「徳川の平和」の高次元での回帰であった。したがってそれは強固なものになったのだ、と。』
(柄谷行人 憲法の無意識)
安倍の強みは、その「機会主義的」なところにある。外交、経済においては、一子相伝のテキストの存在によって、彼の動きは、同時代において比べるもののない政治家としての凄みとして、国民のリアリズムに訴えた。ある意味、「隠れ」安倍とでも言うべき国民のリアリズムが、安倍一強を支えてきている。
今回の国会における「馬脚」は、安倍の世界観の薄さを露呈してしまった。
幸か不幸か、日本国民の「憲法の無意識」に戦えるほどの代物ではなさそうだ。
いずれにせよ、独り立ちした安倍晋三という政治家の地力がここで試されることになる。