Podcast:パブリックメディアの覚悟が本当のポッドキャスト新時代を開く
クオリティの高い、ラジオ番組、ポッドキャストが日本語でも潤沢に聴くことができるようになるにはどうすればいいのかという問題意識で、日々、Mediumなどを眺めている。
1周遅れどころでは済まない感がある日米のポッドキャスト事情だが、その歴史と構造を十分に理解するところからしか、リスナーとしての楽しい未来は開けない気がする。
Mediumに独立系トークラジオ局KPFTFMのプロデューサーErnest Aguilarさん名義の
「パブリックメディアがもっと頑張らないと本当のポッドキャスト黄金時代は訪れない」という内容の熱い投稿があった。
パブリックメディアの側が、ポッドキャストの黄金時代を喧伝するのはいいけれど、独立系ポッドキャスト製作者たちの存在を無視して、既存のラジオ放送の延長上で考えがちなパブリックラジオ側には未来はない。
より生産的な連携性を確立するには、パブリックラジオ側がポッドキャスト製作者のことを理解する努力が必要だという内容。
パブリックメディアの陣営で、その旧体制から離れたところに位置して、現実を良く見ているプロデューサーの本当に熱い提言だった。
“The deeper issue is that public media isn’t as connected as it needs to be with…” — @eaXLR https://t.co/j2IOUEMygL pic.twitter.com/dbsHqBkxl5
— Radio@21 (@R21ADIO) 2015, 6月 2
パブリックメディアの側が、声高々に、ポッドキャスティング戦略を語っている。しかし、現実には、これまでパブリックラジオで放送してきたもの以上の内容を新しく提供しているわけではない。
WNYCの主要番組の自己配信や、ラジオ局向けの無料放送の配信開始の発表も、賞賛の声を浴びたわけではない。そもそもこういった試みは1年前にThis American Lifeが大きな賭けに出た頃から、かなり注目されてきたことなのだ。
パブリックメディアがポッドキャスト、ポッドキャストと大騒ぎしているのを当のポッドキャスト製作者たちが無視しているわけではない。WNYCのRadiolabとOn The Mediaの両番組はともに有名で、他のラジオ、テレビ番組同様、ポッドキャスト経由で配信されているのだ。
(パブリックメディア陣営というのは、基本的に、ラジオ番組として制作したものをポッドキャスト配信するという流れを取っているのに対して、独立系のポッドキャスターたちは、ポッドキャストで番組の制作を行うというより困難な努力を続けているというあたりのことがこのコラムの前提になっているようです。アメリカのパブリックラジオやポッドキャスト市場のことを勉強しはじめたばかりなので、このあたりの歴史が今一つわかっていない憾みがあります。カッコ内はRadio@21のコメントです。)
一方のパブリックメディアはポッドキャスティングの可能性に完全に魅せられている。
しかしこの大騒ぎが、長年、独自の努力を積み上げてきたポッドキャストコミュニティと遠いところで行われていること、すなわち、今回のポッドキャストブームの前から関わっていたポッドキャスターが関わっていないということから見ても、今回の大騒ぎがかなり、表面的な自画自賛に過ぎないことを示しているように思われてならない。
パブリックメディアの主要プレイヤーがiTuneのポッドキャストチャートを埋め尽くす一方で、ベテラン、新人を問わずポッドキャスターたちがこの流れに追随する動きがないということはさらに問題である。
(Radio@21 長続きしない一過性の可能性があるという指摘のように読めます。)
たとえば、The Readは、NPRやAmerican Public MediaやWNYCの番組ラインアップ以上の話題を呼んでいる。
(Radio@21 早速ダウンロードして聴いてみましたが、四文字言葉や、センシティブな話題満載のパワー全開の放送でした。)
繋がりの欠落の理由の一部はプレゼンテーションの問題だろう。パブリックメディアの圏外のポッドキャストはパブリックメディアのポッドキャストは単に違ってトーンなのである。パブリックメディア同様、洗練されている場合もあるが、スタイルとアプローチはかなり異なっている。
パブリックメディアと独立系のポッドキャスティングが繋がりにくい理由の一つは、その番組の表現の仕方(Presentation)の違いにあるようだ。この二つのメディアでは、ポッドキャスト番組の雰囲気やトーンが違っている。
独立系の番組の中にも、パブリックメディアと同じように洗練されているものもあるが、スタイルとアプローチはかなり異なっているというのが事実だ。
NPRからAudibleのオリジナルコンテンツのトップに転職したEric Nuzum曰く、独立系は、パブリックメディアが避けてきたコンテンツリスクを取っているのだ。
パブリックメディアのポッドキャストの一番騒々しい番組でも、ワインを数杯飲んだ後の、静かなディナーほどの活発さもない。たしかにパブリックメディアには特定のトーンで番組を提供するということへの強いコミットメントがある。内容が微妙な分野についてはその抑制は強くなる。
KQEDのChloe Veltmanが注目するように、ダウンサイドは、パブリックメディアが全く新しいものを産み出せないという強い可能性である。むしろパブリックメディア的なトーンをモバイル端末で配信するだけにとどまる可能性が高い。
KQEDのChloe Veltmanは、パブリックメディアが喧伝するポッドキャスティングブームの問題は、結果、彼らが、新しいものを全く生み出せない可能性があるということだと指摘している。パブリックメディアが営々と築いてきたトーンで、従来どおりのラジオ番組をモバイル端末で配信するだけになってしまう可能性があるということだ。
これは悲劇だ。
パブリックメディアが、独自の新しいポッドキャストを制作することができる素晴らしいチャンスが訪れているのだ。
ただ、それにはパブリックメディアの側の少々頑張りが必要になる。
パブリックラジオの雰囲気やトーン自体が悪いというのではない。ただそれに固執しつづけるということが問題なのだ。新しい聴衆を開拓したいのならば、パブリックメディアのポッドキャストほど、その色がつかない方がいいというのが論理的帰結だ。
雰囲気のある長尺(Longform)の語り(Story-telling)自体は素晴らしい。パブリックメディアはこれにインデペンデントのアート系の映画のクオリティを加えている。
しかしこのやり方だけで、従来のファン以外の新しい層を開拓できるという彼らの考え方には説得力がない。そもそもパブリックメディアの従来のリスナー層の規模は必ずしも大きなものではない。
パブリックメディアと独立系ポッドキャスターの間の断絶は、単なる嫉妬や競合、脅威というようなことではないだけ、余計始末が悪い。
独立系ポッドキャスターは、パブリックメディアの動きに無関心なのである。パブリックメディアが自分たちのために何か役に立つなどという期待がさらさらないのだ。
パブリックメディアの側も、独立系のこの無関心さを本当に理解したときには、かなり屈辱的だと思うはずだ。そもそもパブリックメディアの側にも、自分は特別だと考える傾向が強い。
市民社会のために、営利を超える価値のあることを自分たちは行っているという強い自負心がある。
自分たちが開拓したいと考えているリスナーと繋がりが強い独立系のポッドキャスターたちが、パブリックメディアがやっていることに関心がないというのは、かなり心に沁みる痛さがある。なぜ、無関心なのかを知りたくなるはずだ。
独立系のポッドキャスターに関心を持たれていないだけならまだましなのだが、最大の問題は、パブリックメディアが独立系のポッドキャストクリエイターたちほど、リスナーに繋がっていないことである。
リスナーも、クリエイター同様、パブリックメディアに親しんでいないのだ。
独立系ポッドキャスターは、伝統的パブリックメディアのファン層以外の人々が今、何を聴いているか、彼らの耳によりなじむものは何かを聴き分ける耳を持っているのだ。
パブリックメディアは、ポッドキャスターと繋がるためには、自分たちの側でもう一頑張りしなければならない。
今回のポッドキャスティングブームのずっと前から存在していたポッドキャスティング文化というものにパブリックメディアの側がもっと深くなじむ必要がある。
私は、これまで、独立系のポッドキャスターたちと多くの仕事をする中で、パブリックメディアが取るべきスタンスというものが分かってきた気がする。
第一に、自分たちが相手に与えることができる価値を示す:自己紹介の場で、滔々と、自社の説明(自慢)だけして、相手から、それでという顔をされているパブリックメディアの人々の姿を何度も目撃してきた。
かつてTVやラジオが世間に与えた驚きのようなものは衰えつつある。ポッドキャスターたちの多くはパブリックメディアの重要性を理解しない。なんでそんなものに関わる必要があるのかもわかっていないのだ。
最高のもの(Best & Brightest)を纏め上げるラジオという概念は、時代遅れなだけでなく、本質的に間違いなのであり、自己満足と言わざるを得ない。最高のものは既に既にポッドキャストの領域で輝きを放っているのだ。
しかもパブリックメディアの助けを必要としていない。パブリックメディアは自分たちの側から積極的に売り込みしなければならないのだ。
第二に、パブリックメディアがこの生態系の中でどう特別なのかを明確にする必要がある。
パブリックメディアの配信するコンテンツと、リスナーが既にポッドキャスト経由聴いているコンテンツの何が違うのか。制作方法、トーン、価値、美意識がラジオ放送と同じならば、新しい聴衆に対するアピールはいったい何なのか。
リスナーの大半が、パブリックメディアと聴くと、セサミストリートぐらいしか思い浮かばないような時代が到来しているのだ。
パブリックメディアが、ラジオはともかく、ポッドキャストの世界で、エッジが効いた、大胆な番組作りをするなどと思う人はどこにもいない。
新しい聴衆は、彼パブリックメディアの人々と言えば、芸術気取りのアート系クリエイターで、ポッドキャスト作りも知らなければ、それを聴いたこともないはずだと思っている。
そんな中でも、私は、いまだにポッドキャスターたちに対してパブリックメディアの持つ意味や価値について説得しようとしている。
これはそんなに簡単ではない。しかしパブリックラジオのシステムの外側に賛同者をどれだけ作ることができるかが勝負の分かれ目だと思っている。
第三に、学ぶと言う態度で臨むこと。
テクノロジーの進歩によって、この領域に覚悟をもって徹底的に取り組む姿勢があれば、競争条件はかなりフラットなものになってきている。
さらに、パブリックメディアが、その番組を宣伝するThe Pubがあるように、独立系ポッドキャスターたちも新しいリスナーを教育するために、ポッドキャスト批評のポッドキャストがいくつも生まれている。
一種のクラウドソーシングによって、多くのポッドキャスターが、クオリティの高い番組制作のための得難い学習の機会を得ている。パブリックメディアの側は、この点を率直に評価すべきなのだ。独立系ポッドキャスターたちは、組織、体制の欠落を、情熱あふれるリスナー層と、クリエーター、リスナーそれぞれの強い参加意識によって埋め合わせているのである。
パブリックメディアの側は、こういった彼らの覚悟に学ばなければならない。まだチャンスはある。
パブリックメディアの側が、独立系ポッドキャスターにまだ教えられるものが存在しているうちに、そういったスキルの共有によって、何か前向きな動きに繋がる可能性があるのだ。
オンデマンドメディア市場は、リスナーとラジオの関係を破壊しはじめている。オーディオリスナーが、コンテンツをいつ聴くかという伝統的な関係性も急激に変化を遂げている。
パブリックメディアは幸い、今のところ、質の高い番組をポッドキャスティング配信できるという優位性を持っている。
しかし、自社の人間を再配置するだけは、この動きを継続的なものにすることはできない。自分たちの努力の中に、積極的に独立系の才能を取り入れていかなくてはならないのだ。
(以上)