Radio@21:断片的なもののPodcastが聴きたい
岸政彦さんの「断片的なものの社会学」をまた拾い読みしていた。
彼の「語り」に魅かれるのは、僕が、今、英語のポッドキャストに魅かれるのと似ているような気がする。
Amazon.co.jp: 断片的なものの社会学: 岸 政彦: 本
しかし「語り」に渇えているからといって、不自由な英語圏まで行かなくてはならないとは。
大体、英語力というものの最大の鬼門が、Listening Comprehensionだ。聴き取りというのは難しい。しかも型にはまったニュースじゃなく、ドラマ仕立てのShowやインタビューが好きだから、そこで話される英語はColloquialであり、話題も、Nativeのみぞ知るという分野が多い。だから体調の良い時で、50%、体調が悪いと、単なる子守歌になってしまう。
しかしコンテキストというものは意外に馬鹿にできないものである。
昔、アメリカに住んでいた時にこんな経験があった。
ブロードウェイのショーを見に行ったときのことだ。その頃は、かなり長い間、ニューヨークで働いていたので、それなりに英語が聴けるようになっていた。当然、ラジオ、テレビ、タブロイド紙なども目を通していたから、街の話題はそこそこ入っていた。
そのショーで、アドリブのギャグが発せられ、皆大笑いになった。当時、話題になったアイビーリーガーの殺人鬼の話だったと思う。
僕も、それなりに大笑いしていたところ、隣の白人の老夫婦にポンポンと肩を叩かれた。地方からの観光客の人の好さそうな夫婦だった。
奥さんの方が、小声で、
「これはどうして可笑しいの?私たちには全くわからないんだけど」
見かけも当時は正体不明の東洋系に見えたのだろうけれど、日本人の僕が、アメリカ人にギャグの意味を聴かれるという前代未聞の経験をすることになったことになった。
聴き取り力のかなりの部分をコンテキストに対する理解が占めているのは、忘れてはならない部分だ。
コンテキストも共有してない、ネイティブのnon english speakerを一切考慮しない語りになぜこれほどまでに魅かれるのだろう。
一言でいえば、日本の放送(含むテレビ、ラジオ、ポッドキャスト)の中にそれがほとんど見つからないからだ。
日本のポッドキャストでいつも聴くのは、限られている。
鶴瓶の日曜日のそれ
文科系トークラジオ ライフ
大竹まことのゴールデンラジオ
独立のポッドキャスト放送という意味では、TBSの日曜日の深夜帯を使ったライフだけが突出している。中堅の社会学者を中心に活発で魅力的な議論が二か月に一度配信されている。ただその資金運営は大変なようだ。
大竹まことも、鶴瓶のポッドキャストもラジオ番組の二次利用である。
鶴瓶のポッドキャストには、彼の持つ一種の「語り」の天才が憑依していて、きわめて魅力的な番組になっている。
これはRadiptopiaがクオリティの高い番組を矢継ぎ早に配信しているアメリカとは比較にもならない状況だ。
日本のポッドキャストで聴く番組が限られているというのは、独立系のポッドキャスト制作などいうはるか前の、クオリティの高いラジオ番組制作に厚みがないということなのかもしれない。
このあたりはアメリカのNPRのようなパブリックラジオシステムという非営利の番組制作インフラの存在が大きいのだろう。
日本のパブリックラジオシステムであるNHKがもう少しラジオ番組制作を質的にも量的にも厚みを加えるという道が一番現実的なのだろうか。
いずれにせよ、僕は、自分の心を満たすための「語り」を求めている。
まわりは心の居場所を無くした似たような人だらけだ。
岸政彦さんの新しい本の中にエピソードからは、そんな「語り」の豊穣な源泉の存在を感じてしまう。
そんな語りのポッドキャストを聴いてみたい。世の中に存在しないなら、作ってみたいとまで思ってしまう。
「あるとき夕方に、淀川の河川敷を散歩していた。ひとりのおばちゃんが柴犬を散歩させていた。おばちゃんは、おすわりをした犬の正面に自分もしゃがみこんで、両手で犬の顔をつかんで、「あかんで!ちゃんと約束したやん!家を出るとき、ちゃんと約束したやん!約束守らなあかんやん!」と、犬に説教をしていた。
柴犬は、両手で顔をくしゃくしゃに揉まれて、困っていた。
犬と約束するおばちゃんは、擬人化しているというよりは、人と犬の区別がつかなくなっている、ということだと思う。それは擬人化よりももっと自然な状態だ。むしろあのおばちゃんは、人と人以外を区別しないひとなのだと思う。家の中でも外でも、植木鉢、人形、テレビ、台所、犬、猫、人、家、電車、すべてのものが平等に生きているのだろう。
そういう人生のあり方は、それはそれでとてもよいものだ。」
(時計を捨て、犬と約束する)