第22節 アウェイ浦和戦:少しもったいないドロー
2019年8月11日(日)
Jリーグ観戦が週末の楽しみになってから3年目。
それまでもそこそこのサッカー好きだったが、代表を応援しているうちは、サッカー愛というものがかなり抽象的なものであるということがようやくわかった。
途中、岡崎がレスターの優勝にかかわった年などは、ほぼ、レスターのリモート住民となった気分でリアルタイム観戦を繰り返した。あの時に、少々、サッカーに対する地元愛というものの片鱗に触れた。
ミラクル・レスター解体新書【歴史に名を刻んだ日本人】2015-16 Miracle Season.
まあその熱気を、時差のあるチームに持ち続けるのは、よほど暇か、ミラクルレスターぐらいの感動がなければ到底無理である。
コンサドーレが都倉や河合や内村の活躍でJ2から昇格してくれたことで、僕の(失われた)地元愛を確かめる初めてのチャンスがもらえることになった。
一年目はとにかく毎試合、降格の不安との闘いだった。その意味で、なかなかスリリングで良かった。二年目は、ミシャ体制で、思わぬ強さを発揮したが、本当に残留が決まるまでは、どこかで、残留争いの気分が抜けなかった。嬉しくて仕方がないけど、こんないいことが続くはずがないと思い続けていたら、シーズンが終わっていた。
三年目の今年も、相変わらずの混戦だから、どこかで残留という気持ちがないわけではない。しかしどこかでその不安は消えつつある。去年までは、どの試合でも安牌と思える相手などいなかった。今年も同じだが、負ける相手によっての悔しさが以前に比べて格別に強い。
広島、仙台、大分、湘南、松本あたりに勝てないと歯がゆさが尋常ではない。
川崎、鹿島、名古屋あたりは勝てなくても、どこかであきらめがつく。
FC東京は今年は強いが絶対に負けたくない。
このあたりの相手に対する思いの変化が、僕の心の変化を物語っている。
特に近頃、前半は攻めていたり、そんなに悪い試合をしていないが、勝ちきれないとか負けるという試合が続いていた。
そして迎えた浦和戦。
3月のアウェイ戦では、浦和に家族で応援に出かけて、まさに快勝だった。アウェイとは思えない、快勝に少々とまどったほどである。
2019年3月2日 浦和レッズvs北海道コンサドーレ札幌 ATから試合終了、選手挨拶
ホームでの2戦目。
浦和に2タテをくらわすほどの実力じゃないけどなあと思いながらも、前節の広島を2タテするチャンスを逸したことや、大分に2タテされたくやしさなどを紛らすためにも、最近、パッとしない浦和に勝ちたかった。
しかしこの試合も、なんとなく、精度にかける似た者同士の試合となった結果引き分けだった。そこまでの実力じゃないよなという思いと、こういう戦いに勝たないともう一レベル上に行けないんだというくやしさが半ばする結果になった。
武蔵がフリーを外したときには、思わず頭を抱えた。
高校の友人たちとSNSでサッカー談義をしている。これが週末の楽しみの一部でもある。
新潟のサポーターの友人から早速、「これが武蔵。期待しすぎちゃだめだよ」とメッセージ。移籍が決まった時に、新潟サポーターはどれだけ決定機のミスに耐えてきたかをこんこんと説明された。でもいい子だから我慢だよと。かなり上手くなっているよと、武蔵に頭を抱えることに年季の入ったサポーターならではのアドバイスだ。
たしかに、積極的な守備とか、ボールを持った時の一気の加速力とかやはり魅力あふれる選手だ。将来の大エースに育ってもらわなければならない。ここは我慢だと思ってたら、見事なシュートを決めた。ホッとした(笑)
初心者サポーターだし、失われた故郷愛を回復しようとしているところなので、どうしてもチームや選手に甘くなってしまう。サッカー友だちの中には、サポーターにも厳しさが必要だという人もいる。サポーターが甘いフランチャイズは強くならないとも。
でも、どう転んでも、僕は、親戚の子供たちを応援に来た近所のおっさんの意識にしかなれない。
去年に比べれば、期待感も大きくなっているから、不満なことも多い。でも、気づけば、ホームで負けなしが続き始めているし、怪我人がいてもなんとかまかなっていけるチーム力もついた。
こういった甘さの背景には、どこかで低予算や能力の割にはがんばってるじゃないかという気持ちがある。
(だから逆説的かもしれないけど、もともとあんまり好きじゃない神戸を今年はひそかに応援している。資金を使いまくってるんだから、圧倒的な力を示してくれなければ、それで成功しなければ嘘だろうという感じと、イニエスタにもっと日本で活躍して欲しいという気持ちが混じっている。)
神戸イニエスタ Jで魅せた絶妙プレー集 Andrés Iniesta 2018 Magician’s Skills in Vissel Kobe.
コンサドーレのサポーターは、そんな気分を共有してるんじゃないかなとうっすらと期待している。それだけコンサドーレという僕たちの日常がかけがえがないんだ。
そんなところが僕にとってのこのチームのほんとの魅力なのかもしれない。
だから、近くの大きなフランチャイズではなく、年に一度ぐらいしかホームに観戦いけないチームを応援している。
たかが7位。されど7位。
僕のデジタルな「騎士団長殺し」の日々
2019年8月10日(土)
散歩の途中で、iPhoneで聴きさしの騎士団長殺しを、聴き始めると、なぜか、主人公の画家が、絵画スクールの女性たちとの不倫の場面が多かった。
村上ではないが、「やれやれ」と思ってしまう。
小説を読むとき取り立てて、性愛のシーンが好きなわけではなく、むしろ嫌いな方だからだ
しかも不倫となると、倫理的にではなく、気質的に不倫的なものを商売にするという風潮が嫌いなので、嫌いだ。とことん素直ではない。
性愛や不倫自体が好きか嫌いかということについては、ノーコメントとしておく。
にもかかわらず、明治通りから高田馬場の方へ向かう同じような露地でなんどもそういうシーンを聴くことになった。まあこれは僕の散歩道が案外固定しているから当然なのかもしれない。
やれやれ。
こんな風に、村上春樹を読んだこと、正確には聴いたことは初めてである。
1979年の「風の歌を聴け」をほぼリアルタイムで読んで以来、発表されるごとに、ほぼ全作品をまたたくまに読み終わるというのが、僕にとっての村上春樹だった。
作品に対する想いには濃淡はあるものの、じっくりと読むというよりは、一気に読み終えて、安心するという読み方だった。
人生をプールに喩えて、35歳を折り返し地点としている文章に出会って、ほぼ自分の人生の指針のように考えてしまっていた時期もある。その後、40歳に折り返し地点をずらす文章を見つけ、少々裏切られたような気がしたのも鮮明に記憶に残っている。
その後も、ハードカバーが出る時点で読むという時代が十数年続き、その後は、文庫本を待つというようなことになったような気がする。
その中で「ねじまき鳥」だけは一気に読めなかった。それどころか、結局、読み通すこともできなかった。これには何か明らかな理由があるはずなので、またそのうち試してみようと思っている。
騎士団長殺しは、これまでと全く違う読み方をした。
2017年に発売された時には、見向きもしなかった。
問題は村上春樹ではなく、ハードカバーという形態だった。電子書籍シフトをして以来、よほどのことがない限り、ハードカバーを買うことはなくなった。
すぐに検索してみたが、当然、電子書籍化などされていなかった。そこでいったあきらめることにした。
その後2018年に入って英訳が完成した。期待をもって検索すると当然、電子書籍版が見つかったので購入して、英語版から読み始めた。
これは、僕の村上春樹史上初の事態だった。日本語ではなく、英訳から読み始めるなんて。
僕の初体験はこれで終わらなかった。そのころ僕の、英語による読書体験のフォーマットも大幅に変わっていたからである。
気に入っているTim Ferrisのロングインタビューの中で、名前は忘れたが、若いビジョナリーが最近は紙の本ではなくオーディオ版で読むことが多くなったと言ってたのに刺戟を受けて、そのころには、Audibleで英語本を買って聴くという習慣をつけようとしはじめていたからだ。
Kevin Systrom — Tactics, Books, and the Path to a Billion Users | The Tim Ferriss Show
Audibleを検索してみると、騎士団長殺し Killing Commendatoreのオーディオ版が入手可能になっている。そこで早速購入し、挟み撃ちのような読書が始まった。
英訳の村上春樹は、さすがに、根幹のロジックのところが日本語なのか、他にトライしている英語の小説に比べればはるかにわかりやすかった。
短いAudible経験だが、ノンフィクションの方がフィクションよりはわかりやすいし、当然ながら、オリジナルが日本語である英訳版はかなりわかりやすい。
一番わかりにくいのは、アメリカ人やイギリス人が書いた純文学だ。(笑)
純文学の定義の中に、「他人にわからないように書く」というのがあるような気もするから、これは当然かもしれない。
こうやって高田馬場の露地でなんどか画家の不倫を聴いたり、神田川沿いで、騎士団長と画家の不思議な遭遇の場面を聴いたりしながら、1年がかりで読了(聴了)した。理解度で言えば、たぶん60%ぐらい。特に繊細な部分は今一つわからなかった。でも大きな物語の流れに感動するには十分な体験だった。
2019年になって文庫版が発売された。分冊が出る都度買って、読み終えた。もやもやした部分が明確にわかってスッキリしたというのとはちょっと違う感じだ。
英語と日本語では、どうも村上春樹体験はまったく別のものだということがわかった。どう違うのかということを正確に語れるほど言語化されてはいない。
休日にデパックに文庫を入れて、散歩しながら、英語版のオーディオを再聴したり、小休止先のスタバで、文庫を読んだりというのが続いた。
結局、2年がかりで英語の電子版から始まった僕の「騎士団長殺し」体験は、文庫版の読了を持って一回転した。ただ、この一回転の中には、電子書籍やオーディオ本ならではの、再読、再聴という無数の小回転が含まれている。
その意味では、本屋に並ぶのを待ちかねて購入し、家に帰ってその日のうちに読了し、本棚に片づけるという一直線のスリリング(?)さはないが、いったりきたりする、まったりとした読書体験を楽しむことができた。
これはなかなかに贅沢な時間だった。他の村上春樹作品でも同じようなことを試してみようかとか、覚えたいと思っている外国語でこの挟み撃ちをやってみようかとかいろいろな派生的関心が生まれてきた。今は中国語版の騎士団長殺しの読破を密かに目論んでいる。
今気づいたのだが、騎士団長殺しの内容については全く書いていない。まあ、書きたかったのはそこのところではないし、たぶん無数の読者がそのことは書いているはずだから、今日のところはやめておくことにする。
津村記久子 「ディス・イズ・ザ・ディ」
2019年8月9日(金)
最近Jリーグでちょっと活躍しはじめた若手がすぐに海外の2軍的なところに青田買いされる動きが加速している。個々の選手のレベルが上がっていくことは日本のサッカーにとって悪いことではないかもしれないが、少し行きすぎな感じがしている。
チームを過剰なほどに守るプロ野球の姿勢に対しては、なんとなく、批判的な気分を持っていた。でも最近、張本さんが、大事なのは日本のプロ野球だろうと、選手の海外志向を批判したのが、ちょっとわかるようになってきた。
これは、Jリーグのコンサドーレへの感情移入が強くなってからのことだ。
そうなのだ。大切なのは、日本代表ではなく、自分が応援しているチームであり、そのチームの動向に一喜一憂する自分たちの日常なのだ。
芥川賞作家の津村記久子さんの「ディス・イズ・ザ・ディ」は、そういう「自分たち」の感覚を描きつくして、既に古典の域にある。
別に読みやすいわけでも、構成が良いわけでもない。
ただ津村さんはこの小説で、まったく違ったサポーター私小説のような新しいジャンルを生み出したようなのだ。
向田邦子を読むと誰もが自分の「父の詫び状」を書ける気になるのと同じような意味で、この小説はそれぞれのサポーターの心情を強く喚起するものがある。
なかでも僕は、「また夜が明けるまで」が好きだ。
昔J1で優勝した経験があるが、2年前に降格して、昨年はプレイオフで格下に敗れ、昇格を逸するという不測の事態に陥り、起死回生、今期は、なんとか自動昇格の位置を確保するために最終戦に勝ちたい浜松のチームのサポーターであるフリーライターの女性と、最終戦で負けるとJ3降格が決まる土佐のサポーターである女性の中学教師の不思議な友情の物語である。
フリーライターはどこかで自分が観戦に行くと、負けるという想念にとらわれている。彼女は東京に住んでいるのだが、昔、J1のトップチームだった浜松のファンだったことから、今でも、浜松を応援しているのだ。
中学教師は数年前からカップ戦での活躍を契機に応援するようになり、コアサポというほどでもないが、サポーターとして日常を楽しんでいる。
迷ったあげく、アウェイの街に降り立ったはいいが、飛行機が遅れ空港バスの最終に乗り遅れ、立ち往生しているライターを、たまたま空港にボーイフレンドの妹を車で迎えに来ていた中学教師が声をかける。
この敵味方がひょんなことから知り合い、それぞれの想いで、昇格と降格がかかった最終戦を迎えるという話である。
人はなぜサポーターになるのか、そして、なぜサポーターをやめないのかという心の機微を見事に描き出している。
津村さんの悪口を言う気持ちはさらさらない。
登場して即座にジャンルを作り出した力は尊敬する。
でもおそらく多くの読者は、自分の中に溜まっている、もっと深い色をした宝石のような物語を見つけることができると感じるはずだ。
それがこの不思議な小説の最大の魅力なのである。
僕も同じで、コンサドーレの昇格のかかったアウェイのジェフ市原戦で、初めて行ったゴール裏の奇妙な熱気にゆっくりと絡めとられ、そして内村のスーパーゴールで心の中に熱い焼きごてを押し付けられたようなあの感動から、もっと良い物語を紡げると強く感じているわけなのである。あの試合では、まだユニフォームすら買ってなかったのにいまや(笑)