21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

Julia Philips Disappearing Earth; 哀しきカムチャッカ

2019年8月8日(木)

毎年、本を読む形が変わってきている。

かなりラジカルに電子書籍シフトをしたからだ。

 

長年にわたって紙の本を大量に買ってきたが、ここ数年、ハードカバーから、紙の本を買わなくなってきた。今では、電子書籍で手に入らなくて、どうしても今読みたいというごく限られたものしかハードカバーを買うことはない。

はじめは英語書籍だけだった。英語書籍を読むには電子辞書等が実装され、さらにマルチタスクでノートがとりやすく、それを即座にクラウドベースのストレージサービスにコピーできたり、SNSでシェアできるというメリットや、アマゾン経由では、ほとんどの書籍で電子版が即座に手に入るというメリットが明らかだったからだった。

その後、ビジネス関連の書籍もキンドルシフトをした。これも作業という観点から、PCと統合されている方が読むうえでもまとめるうえでも適していたからである。

さらに何度も繰り返して読みたい古典(哲学、社会科学、科学、宗教)等は、紙の本を持っている場合でもキンドルで買うようになった。個人の家にある紙の本の書庫は検索が不可能である。その点からも、参考文献は英語であれ、日本語であれ、電子書籍として持っている方が良いのである。

残りは、小説の類だ。ただこの点でも、ハードカバーの本の携帯性にもはや耐えられなくなっている。その意味で、唯一細々と生き残っているのは文庫本だ。ただし、一度読んだらおそらく絶対にもう再読しそうもないものは、むしろキンドルで買うようになった。

今、僕のデパックの中には、読書用のキンドルiPadと、一冊の文庫本あるいは、電子書籍版のないハードカバーがある。

これはどのように携帯するかという観点からの変化だ。

実は読み方自体も変化してきている。

ついさっきまでスタバで読んでいたのは、英語の小説である。
Julia Philipsという新人女性ミステリー作家の、デビュー作。

消えゆく大地。

北海道出身としては地名的に馴染みのあるカムチャッカ半島が舞台の小説。


二人の少女の失踪事件以降はじまる、この地域に住む多数の女性の運命についての物語である。

 

この失踪事件を共通の要素としながら、様々な女性の個別の悲劇が淡々と描かれている。ソビエトの軍事拠点であったこの地域にまつわる人種問題を横糸に、様々な女性の日常がクールで明晰で哀切なスタイルで語られている。

 

Disappearing Earth: A novel (English Edition)


そもそもこの小説を知った経緯自体がイマドキの感じだ。New York Timesからのメールの中で、カムチャッカを舞台にした新作ミステリーという一文を見て、興味をひかれ、検索していたら、この作品をテーマにしたポッドキャストを見つけた。なんかこれは面白そうだということで、まずは、Audibleでオーディオ版を買ってみた。

最近の英語学習の究極目的は、リスニングによる鑑賞だということで、オーディオ版をトライしている。村上春樹騎士団長殺しを聴き切ったのをきっかけに何冊かの英語小説を聴いた。

その伝でトライしてみるが、さすがに、聴くだけでは難しい。そこで、キンドルでテキスト版も買ってみた。

休息時のスタバなどで、iPadを立てて、キンドルのテキスト版を読みながら、オーディオ版を聴くという形の読書フォーマットが最近気にいっている。

当然、テキストを読むだけより時間はかかるが、どうせ、英語だからすんなりわかるわけでもないので、内容がつかみやすくなる分、時間をかける意味がある。

この小説が渋くて、鮮烈であることは、こういう読み方でなければネイティブではない僕にはわからなかったような気がする。少々割高で、手間がかかるが、悪くない時間の使い方だ。

 

散歩しながら、オーディオ版を聴くとか、こんな風にダブルで楽しむとか、かなり読書のフォーマットも新しい技術によって劇的に変化している。

これは決して悪いことじゃない。

ついでに検索していたら、作者が自作を語っている動画が見つかった。これもまたイマドキの読書の仕方の延長線上にあるわけで試しに眺めてみたらいかがでしょうか。

 

 


Julia Phillips, author of DISAPPEARING EARTH, at the Librarian Open Book Event, April 2019.



仕事と趣味の間

2019年8月8日(木)暑い暑いといっても仕方がないが暑い

 

数年定時というものや固定の仕事の場というものから離れた生活を送ってきたあと、ここ1年ばかりいなければならない場所というものがそれなりにある形の仕事の仕方をしている。

今週は暑いし、固定の場所に縛られる形のミーティングというものがあまり入らなさそうなので、今週一週間は休みだと宣言した。宣言して数時間後には、海外とのコンファレンスコールをしたり、家で作業したりしているのだから、何も変わらないようななものだが、今週はオフィスに出かけないと宣言するだけでも随分気分は違うものだ。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)



自分はオフィスにいないということが公的に認められているということのもたらす拘束感の軽減は大きい。自慢ではないが、数十年間、定時や固定のオフィスに縛られる生活を恙無く果たしてきた。しかしその代償は、体内時計が日本的サラリーマン生活というOSに乗っ取られてしまったことだ。

自営業的ワークライフになってからも、この体内時計に縛られ、自由な時間というものに奇妙な負債感を感じてしまうのである。それが薄まるのに数年はかかったし、今もその痕跡は消せない。

 

学校というものに入ってから、身体に埋め込まれたライフスタイルというものの恐ろしさである

ということで、今日も、朝、慣れないベッドの中で今日は何をしようかと考えていたら、早速海外からのスカイプコールに起こされた。

だからといって仕事を引きずっているというストレスまでにはならない。

長い年齢、ほぼ仕事中心に過ごしてくると、左端を仕事、右端を趣味とした線を引いてみると、仕事の中でも趣味の方によったものと、仕事だからやるというものが連続的に並ぶことになる。

今日だって、結局、どこかのリゾートに行って、のんびりするなどという選択肢を全く頭の中に浮かばなかった。子供たちが大きくなってからは、そういうタイプの夏休みというのはなくなった。

結局、右端に近い、純趣味の分野から、足元の仕事には遠い、趣味に近い、夢見がちなプロジェクトに関する読書を組み合わせて、熱波の東京をうろつくだけである。

正確に言えば、いくつかのスタバをはしごするだけである。

 

働き方改革とかいうけど、ストレスになるのは、誰かに指示されて、どこかで、自分のペースじゃなく働かせることなのだから、誰かから働き方を指示されるというのはどこか形容矛盾な気もする。

そんなどうでもいいことを考えながら、仕事ともつかず、趣味ともつかない時間をスタバで過ごしている。ここのコーヒーが取り立てて好きなわけでもないのに(笑)

死んでも死なないイノチって?

2019年8月6日(火)

お盆が近いからというわけでもないのだが、やはり、人間にとって一番大事なのは生きるということ死ぬということだなあと、熱帯夜で寝不足気味の頭でぼおっと考えている。

ここ5年ぐらい毎週聴いている、山下良道さんというお坊さんの法話ポッドキャストの影響も大きいのだけれど、年甲斐もなく、相変わらず、旬な、イマドキのビジネスを追い求めたくなる気持ちの振れをどこかで安定させてくれるのは、人間はいつか死ぬという考えである。

光の中のマインドフルネス――悲しみの存在しない場所へ

 

でも、どうせ死ぬんだから、なんでもいいということでもない。

山下さんの師匠の内山興正さんという瞑想の巨人の最強の決め台詞の「死んでも死なないイノチ」という言葉がある。

 

どうせ死ぬんだからなんてことは言っていられない。なにせ、生きるということと死ぬということには切断がないのだ。そもそも生死なんてことは、人間が頭の中で生み出した概念にすぎない。そこにあるのは存在そのものだ。

特に年を取ってくると、身近なところにいる自分より年上の人間がコマ送りで衰えていく。それを嘆き、厭いながら暮らすのか、人が形のない世界へと移行していくのをしっかりと目撃できる稀有な機会ととらえられるかは、このあたりの死生観の有無によるんだろうなあ。

随分前になくなった池田晶子さんにこんな言葉がある。

14歳からの哲学 考えるための教科書



「人が信じるのは、考えていないからだ。きちんと考えることをしていないから、無理に信じる、盲信することになるんだ。死後の存在をあれこれ言う前に、死とは何かを考える。神の存在をあれこれ言う前に、何を神の名で呼んでいるのかを考える。もし本当に知りたいのであれば、順序としてはそうであるべきだとわかるだろう。

 

信じる前に考えて、死は存在しないと気がつけば、死後の存在など問題ではなくなるはずだし、死への怖れがなくなれば、救いとしての神を求めることもなくなるはずだ。そして、救いとしての神を求めることがなくなれば、にもかかわらず存在しているこの自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」、この謎の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶとするのなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと。」(14歳からの哲学)

 

そうなんだよな。余計なことじゃなく、こういうことに頭を使うべきなんだと、お盆を迎えて、しみじみ思う今日この頃です。