安倍晋三の地力が試される時
2017年3月15日(水)10℃ 雨のち曇り
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安倍一強を事実として支えている国民心理は複雑である。
安倍晋三という政治家の能力の多くの部分は岸信介、安倍晋太郎という、一子相伝の巨大な政治テキストに因るものだ。
彼が凡百の二代目、三代目とは違うのは、日本の戦後史の根幹を貫く日本の国としての生き残りの中で磨き上げられた比類ない経験値の集積に対する特権的な近さの故なのである。自らの意志というよりは、宿命がここまで彼を運んできた。
この血縁は、むしろ、外交という面における安倍という政治家に対する国民の信頼を支えている。これが安倍晋三に対する国民の支持の一つの柱だ。
経済に関して言えば、日本にも世界の先進国動向にならって、官僚国家に対する強い不信感がある。スティーブ・バノンのように行政国家、官僚支配の粉砕とまで事挙げする政治家こそいないが、自民党政権の、財務省を代表とする官僚への過度な依存に対する日本人のポピュリズム的不信は静かに高まっている。官邸主導という形で、官僚支配を超えようとする安倍政治に対する心情的支援の二つ目の源泉がここにある。
伝統的な右派、左派という軸ではない、エリート支配に対する下からの反発という意味での日本のポピュリズム心情を安倍晋三という政治家はこれまでうまく吸収してきた。
国民心理などというのはやめにしよう。この二点に関しては、安倍の方向性を自分も受け入れてきた。
しかしここから先は厄介だ。
安倍晋三という政治家が、一子相伝という形で得られる特権的テキストはほぼ使い切られているからだ。
この教科書のない世界では、自らの自助努力と、ここまで築き上げた彼の世界観が試されることになるのだ。
政権維持のための、極右的勢力との安倍晋三固有の関係性は、以前から、政治家としての彼にとっての最大のアキレス腱だと考えてきた。
極右的言説自体を全否定する気はない。世界を見渡しても、それを否認することは、それを野放しにすることと同じだからである。
しかしナショナリズムという厄介な概念を弄ぶには、彼及び彼を取り巻く者たちの、固有の世界観の薄さは致命的と言える。この分野においては、知的インテリの集まりであるニューヨークタイムスなどの既成メディアが全力を賭けて対決しようとするスティーブ・バノンやそれを支えてきた右翼思想の厚みは存在しない。
安倍の極右への「安易なリップサービスであった人材」が、今、国会におけるその振舞において、文字通り馬脚を露し、安倍政権の基盤を揺るがしはじめている。
この領域において、有権者を舐めてはいけない。
『戦後日本に九条が定着したのは、それが新しいものではなく、むしろ明治以後に抑圧されてきた「徳川の平和」の回帰だったからではないか。だから、こういってもいいのではないか、と思います。内村におけるキリスト教が武士道の高次元での回帰であったように、戦後の憲法九条はいわば「徳川の平和」の高次元での回帰であった。したがってそれは強固なものになったのだ、と。』
(柄谷行人 憲法の無意識)
安倍の強みは、その「機会主義的」なところにある。外交、経済においては、一子相伝のテキストの存在によって、彼の動きは、同時代において比べるもののない政治家としての凄みとして、国民のリアリズムに訴えた。ある意味、「隠れ」安倍とでも言うべき国民のリアリズムが、安倍一強を支えてきている。
今回の国会における「馬脚」は、安倍の世界観の薄さを露呈してしまった。
幸か不幸か、日本国民の「憲法の無意識」に戦えるほどの代物ではなさそうだ。
いずれにせよ、独り立ちした安倍晋三という政治家の地力がここで試されることになる。