アメリカ人のイスラーム好感度(WSJ) (トランプのアメリカ)
2017年2月18日(土)11℃ 曇り時々晴
112.915 ¥/$
不確実な通貨市場の中で、一つだけ確実なことがある。通貨の方向性に何一つ確実なことはないということだけだ。メディアの為替専門家の意見というものを少しまじめに記録していくと、そのことがよくわかる。
日米首脳会談が、事もなく、終了したならば、とりあえずはドル高の方向というのが、獏とした読みだったが、半日ぐらいはそういう反応があったようにも思うが、また円高の方向に振れている。
いずれにせよ、誰も為替の方向性など読めないし、為替 1,2円の動きに一喜一憂するのは馬鹿げているということだ。
相変わらず、トランプ対エスタブリッシュメント(メディア含む)の暗闘は続いている。しかしここまで継続すると、少々、食傷気味になってくる。大統領候補ではなく、大統領になったのだから、その無責任発言を糾弾するマスメディアの正当感が高まってくるかというとそんな気もしない。
ハイライトはイスラエルのネタニエフ首相との共同会見における、パレスチナ問題をめぐる二国間共存をめぐる、トランプ大統領の両者にとって良いのを選べばいいじゃん!的お気楽な発言だった。毒気にあてられたネタニエフの場違いな愛想笑いがその状況の奇妙さをハイライトしていた。
当然ながら、パレスチナにおける様々な暴力、不正を思えば、関係者は激怒してしかるべきだし、激怒しているとマスメディアは伝えているが、いわゆるリベラル系マスメディアのこの定番の反応からも、さほどの現実を感じないのも事実だ。
そんな中、今日のウォールストリートジャーナルの日本版に面白い記事があった。
トランプ大統領の大統領選からの反イスラーム的発言が、反トランプ気運の高まりの中で、逆にイスラーム支援に繋がっているのかもしれないと。
『メリーランド大学が米大統領選の選挙期間に4回実施した調査では、米国人のイスラム教徒に対する見方が着実に改善したという。これについて同大学のシブリ-・テルハミ教授は、選挙戦での差別を助長する言葉遣いが、皮肉にもイスラム教徒への人々の見方を好転させたと考える。「逆説的だが、トランプ氏がイスラム教徒を選挙戦の中心テーマに据えたことで、それに反対する人々が結束してイスラム教徒を応援する側に回った」』
欧州社会でのムスリム移民と現地のリベラル陣営の対立を眺めていると、このあたりの、ちょっとした世論調査の意味が少しだけ理解できるような気もする。
欧州において、ムスリム移民にもっとも対立しているのが、実は、西洋的な個人の自由を徹底擁護するリベラル陣営なのである。ムスリム移民がゲイの権利や、女性の着る自由などを人間本来のあるべき姿からの逸脱として批判することに対する、感情的な反発がその底には伏流している。
革命を成立させるために、トランプ大統領は戦術的に、米国民の中の保守的心理に訴え、それに成功した。とりわけ、最高裁判事の任命によって、保守派の比率を上げることによって、オバマ政権のもとで進んできたリベラルな方向性への揺り戻しが予想されている。
米国の保守派の心理を代表するのが福音派と呼ばれるキリスト教徒たちであるとするならば、イスラーム教とキリスト教の本質的価値というのはそれほど乖離するものなのだろうか。リベラル的逸脱を恐れる心において、そこには、実は共通する要素がある。
中東問題を、宗教間の対立としてとらえるのは、何世紀もの間行われてきた、問題設定における捏造だ。
イスラーム、キリスト教、ユダヤ教は、一神教としてその根幹において共通するというのは、少し真面目な宗教社会学の本を読めばすぐにわかることだ。
それでは、何が対立しているのか。
歯止めのない、市場中心主義である。宗教と市場中心主義が対立しているのであって、イスラームとキリスト教が対立しているわけではない。
トランプ革命の本質は、これまで自明とされていた様々な前提への異議申し立てにある。彼が喚きたてるFake Newsという言葉は一面の真理をついている。
傑出した文芸批評家であったエドワード・サイードに「イスラーム報道」という名著がある。原題のCovering Islamがその本質を抉り出している。まさにイスラームを報道(Cover)することは、イスラームを隠蔽(Cover)することなのである。
イスラム報道 | エドワード・W. サイード, Edward W. Said, 浅井 信雄, 岡 真理, 佐藤 成文 |本 | 通販 | Amazon
これは1ジャーナリストの良心云々とは違って次元で、私たちのメディアの中に埋め込まれている言説なのだ。
そういった「当然のこと」に回収されないトランプの振舞の中に一筋の可能性を感じるのはとんだ楽観主義なのだろうか。
世界の定評ある言論装置が自明としてきた(あるいは自明とさせてきた)ことが崩れた先に以外に今の、私たちの行き詰まり感の出口がみあたらないのも事実だ。