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内藤正典「ヨーロッパとイスラーム」      (トランプのアメリカ)

2017年2月15日(水)13℃ 晴れ

 

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英会話の世界にストックフレーズという言葉がある。

 

国語学習では、状況に応じて、どういう言葉遣いをすればいいのかということが教えられる。状況毎に使うことのできる言葉遣い、それがストックフレーズである。

 

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このストックフレーズが塊で頭の中に入り、自然に口を突いて出るようになると、一見、外国人たちといっぱしの流暢な会話ができるようになるのである。

 

ただその流暢さと相互理解は全く別の話だというのが厄介なところなのである。

 

欧米人というか、私の場合は、主としてアメリカ人との交渉で常日頃感じるようになったことがある。彼らにわかるように説明するために、こちら側の自然な論理を修正する必要があるということだ。

 

驚くほどに、彼らは、自分のわかることしか、しかもわかるようにしか、わかろうとしないのである。

 

結局、ストックフレーズに基づく、流暢さは、相互理解どころか、こちら側の妥協、譲歩であることが大半になってしまうのである。

 

それがアメリカとの交渉の私的な現実だった。

 

日米首脳会談で演出された、不器用ながらも、和気藹々とした雰囲気も、この理論から逃れられていないはずだ。

 

 

欧州のイスラームが専門の内藤正典さんの「ヨーロッパとイスラーム」(岩波新書 2004年)を再読した。

 

ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か (岩波新書) | 内藤 正典 |本 | 通販 | Amazon

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難民、移民というものを考える上で、自分の頭の中をもう一度整理する必要を感じたからである。

 

この本が描きだしているのも、欧州の国々が如何にムスリム移民を誤解してきたかという現実である。

 

自らの経済動機で移民を呼び寄せ、都合が悪くなると、それを疎外するということ自体で不公正な話だ。

 

しかし、さらに、それを自らのロジックで疎外された側に責任ありとする、強弁、欺瞞。

 

それをムスリム移民たちは、見透かしているという、悲惨な現実がドイツ、フランス、オランダでの彼の行ったフィールドワークに基づいて描かれている。

 

欧州文明というものが、12世紀に、イスラーム圏を経由してギリシアの古典世界を継受したという根本的な事実さえ、隠蔽されていく。そういった知的欺瞞には事欠かない。

 

キリスト教から世俗化する過程での科学技術の進歩による富の集中に基づいて、ヨーロッパは自己中心的な世界観を捏造した。近代化のための必要条件としての世俗化を金科玉条とし、イスラームなどの異なる文明への優越感と差別意識を拡大させてきたのである。

 

その過去においてさえ、既に、分が悪い。

 

第二次世界大戦後、植民地主義の結果、言語上の利点がある新興国から多くのムスリムが移民としてヨーロッパに渡るようになった。植民地主義の悪というものが喧伝される中で、寛容を装う必要が生まれたのである。

 

旧植民地とヨーロッパ先進国間の、南北問題の結果、移民の輸出をする側と、戦後復興に必要な労働力の確保という受け入れる側の利害が一致した。

 

戦後復興の時点に限らず、少子高齢化労働人口の減少に悩む欧州社会には、移民を受け入れる経済論理が存在している。これは同じ条件下にある日本にとっても、他人事と目を背けていられない点である。

 

ドイツをはじめEU諸国は、高度の社会保障制度をもつことで知られている。だが、いずれの国でも少子高齢化が進んでいる。この状況で年金制度が維持するためには、合法的に働く移民を一定数確保して、彼らに保険料を負担してもらうことが不可欠であるという認識は、すでにEU全体で共有されている。不法就労者や不法滞在者への摘発を強化すると同時に、合法的に滞在する移民は積極的に受け入れるというのは、EU加盟国の基本的な合意となっている。こういうコンセンサスができつつある一方で、増加した移民たちとのあいだに摩擦や衝突が起きている。それがドイツのみならず、ヨーロッパ各国の現実なのである。』

 

 

これだけの歴史の積み重ねを経て、今の欧州のムスリム移民社会があるのだ。

 

欧州の景気後退とそれに伴う失業の増大のため、戦後の復興を支えた移民労働者は一転招かれざる客となった。移民たちはそれまで積み重ねた生活を守るために、家族を呼び寄せるという権利を行使した。本当は帰って欲しかった欧州との間の捩じれた関係のはじまりである。

 

欧州は、遅れたイスラームというイメージを捏造した。しかし、イスラームという宗教の持つ論理性、ムスリムに与える強い求心力は、世俗化の波の中で、漂白されていったキリスト教に比較することも愚かなほどだ。

 

そして、この宗教は、恒常的にイスラームの民に、欧米の大国から、課せられてきた不正なる圧迫の中で、その現代性を研ぎ澄ましていっているのである。

 

欧州の中で、その論理を研ぎ澄ませた第2世代、第3世代のムスリムの中から、欧州諸国の中から、見習うべきものと、忌避すべきものを鮮やかに提起するものたちが現れた。

 

面白くないのは、欧州のホスト社会である、憐れな存在なら許せるが、自分たちの現状に対する批判の軸を持つ移民たちを挑戦と受け止めるようになったのである。

 

内藤さんは、政教分離のある欧州社会と、政教分離のないイスラームの論理に生じる不可避的な摩擦について克明に説明していく。

 

『個人の生活はもとより、社会生活もまた、神の意志の及ぶ領域であるし、したがって人間によって創造された国家であれシステムであれ、すべてがイスラームの規範の適用範囲となる。ムスリムの主張が、しばしば社会改革や政治改革、あるいは国際政治においてイスラーム的公正を求める批判的意見として出てくるのもこのためである。

 

西欧世界には、近代化のためには国家と教会の分離が不可欠だという認識があるから、ムスリム移民も、ヨーロッパに暮らしていれば、自然に、この考え方になじむと思い込んできた。しかし、イスラームには、国家や社会が世俗化しないと近代化できないという発想はない。移民たちのイスラーム復興は、中世への回帰現象ではなく、宗教的規範が社会をコントロールできなくなった現代社会において、自分たちの価値観にしたがった生き方を始めるという新しい選択だったのである。

 

イスラームに対して、もっとも過激な批判を行っているのが、リベラルな人権用語型の政党であるという点が興味深い。

 

イスラームを人権抑圧、性差別、反民主的という軸で批判する勢力である。これは、今後の世界の移民政策を見る中で、きわめて重要な論点になっていくだろう。

 

アメリカにおいても、入植者の国家であるという歴史にさかのぼって、「アングロプロテスタント文化」に基づく、アメリカ的信条を国の根幹に置くべきという主張が勢いを得ている。

 

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しかしカトリックの修道女のヴェールに政治的な意味をみず、信教と表現の自由を認めながら、イスラームのスカーフに政治的意味を付与して干渉する西欧社会は、ムスリムから見れば、あきらかにダブルスタンダードなのだが、欧州の人びとはダブルスタンダードであるということを認識できないという内藤さんの批判は鋭い。

 

人間というものは見たくないものは、見ないのである。自らの不正を直視することよりも、自らの正当化に走るものなのだ。しかも、その論理は破綻している。

 

 

フランスの自由・平等・博愛に着目するこんな部分。

 

『このような状況を見ていると、フランスの掲げる「自由・平等・博愛」の最後にあたる「博愛」がどうも日本語のニュアンスとかみ合わないことを指摘せざるを得ない。実際、言語のフラテルニテ(Fraternite)は日本語でいう博愛の概念とはなじまない。博愛というと、「自分のことを愛してくれようと、嫌っていようと、私はあなたを愛する」というニュアンスを感じる。しかし、フランスにはそのような「博愛」の精神はない。フラテルニテとは、同じ集団のメンバー相互の同胞愛ないし兄弟愛のようなものであって、仲間どうしを愛してあげるという意味である。そこには、仲間になることを嫌がる人間まで愛しましょうという発想はない。』

 

今後の移民政策を考える上で、この仲間とは何かという軸が先鋭に論じられるようになるはずである。これは日本も例外ではない。

 

 

欧州社会の論理がこじつけと破綻に満ちているのに対して、ムスリムの依拠する、イスラームの論理は、それを受容するかしないかは別にして、はるかに首尾一貫している。そしてその社会的公正に対するメッセージの訴求力は大きい。多くの格差と差別を放置して語られる、近代社会の必要条件としての民主主義という欧州の言説に、現実を生きるムスリム移民たちは一切心を動かされないだろう。

対話というものが相互理解につながるためには、お互いがお互いの論理に対する敬意を持ち、理解しようとする精神の構えが必要なのだ。精神の構えの硬直性から見て、追い詰められているのはムスリムではなく、欧州社会のような気がするのは私だけなのだろうか。

 

しかも、イスラームの論理は非ムスリムにも、強い訴求力を持ちうるのだという厳格な事実を私たちは、深く、かみしめる必要がある。