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映画の時間: オリバー・ストーン「ウォールストリート」

オリバー・ストーンは良い意味でも悪い意味でも問題作をつくりつづける作家だ。今回のウォールストリートパート2の印象は、個人的には悪い意味の問題作の方だ。というか、問題作にもならない。ある意味では、この作家は、常に、2流であり続けるという点が凄いところかもしれない。第1作がもっていた程度のインパクトはここにはない。

ある意味、バブルというのは手の込んだ冗談のようなところがある。古くはチューリップバブル以降、人間は振り返れば、驚くようなことを行ってきている。1個の球根が家一件以上。しかし、

日本の不動産バブルを嘲笑った市場は、少々意匠を変えただけの米国の住宅バブルを容認した。

少しずつ、人間が引き起こす、バブルは手が込んできている。米国の住宅バブルは、米国社会のどうにもならない格差を隠蔽するための公共政策としての貧困層向けローンに本質の一端がある。

さらには、米国が自分達は悪くないというための、グローバルインバランスという言説も物事の基調には存在する。消費によって成長を駆動する資本主義システムにおいて、低開発国の成長を担保する、先進国側の消費が枯渇し、唯一、ウェブレン的消費が生き残っている米国にすべての消費を依存した世界システム。そのファイナンスを支える、ドルの基軸通貨性。

必要な身の丈の範囲で生活し続けるならば、資本主義は早晩燃料切れになる。グローバライゼーションというのは、必要不可欠な過剰さを世界中を駆け巡って作り上げるということなのだ。しかし、情報革命と相俟って、世界は透明になりすぎた。透明であるということは、バブルというものがうまれにくくなるということである。

米国という先進国で、人類史上、極めて手の込んだバブルが破裂したということの意味は大きい。

今後、世界は、中国、クリーンエネルギーなど新しいバブルを追い求めて続けるだろう。しかし、バブル生成のための最大のプラットフォームである米国システムが揺らいでいるということは、システムの本質に変化を強いるはずだ。

米国のバブルも、そういった資本主義の確信犯的行為の現れだった。今回のウォールストリートは、そういった手の込んだジョークを、杜撰で三流のパロディにした。でも逆に手の込んだジョークを手の込んだ社会派批判劇にする事自体がバブルの円環に加担する行為だという彼一流のシニシズムなのかもしれない。

しかしいずれにせよ、今回のバブルを一握りの金融界の投機家たちの陰謀に還元してしまう今回のウォールストリートは、さすがに「手が込まない」にも程がある。マンハッタンの風景あたりは、なんとも懐かしく、どんな映画でも魅力に感じてしまうし、マイケル・ダグラスは相変わらずかっこういいのだが。

ベアスターンズ、GS、ポールソン財務長官、サブプライム空売りで壮絶に儲けたポールソンなどを想起させる人々を配してはいるが少し丁寧に社会派的なシナリオ構築をしてくれた方が上質の「社会派ミステリー」娯楽作品になったのに。結局、良い題材なのに娯楽作品として三流にしたことに腹がたつ。

書いていて、ぼくは、やっぱり、オリバー・ストーンの作品が嫌いだと今更ながらに思った。