人生の熟成(開高健 「ロマネコンティ・一九三五年」)
2017年4月5日(水)20℃ 晴 110.788 ¥/$
最近は、平均的日本人と同じくらいには、食事の時に、ワインを飲む回数が増えたかもしれない。
数十年前、バブルが弾けた直後というか、関西の大地震とカルト教団の東京でのテロが決定的に日本を変質させた頃に、長く留守にした日本に帰ってきた時の記憶が急に蘇った。
海外で生活している頃から、やけに、ワインというものが日本でブームになっていることは風の噂に聴いてはいた。しかし現実にワインのワの字でもなかった友人、知人がみないっぱしのconnoisseur(好事家)的なことを語りだしているのに、ちょっとびっくりしたのを覚えている。
ただ最近は、いまだに日本の政府が対策に苦労しているデフレのせいか、ワイン事情も随分変わってきたようだ。ワイン代だけで目の飛び出るような高級レストランというものへの漠然とした情熱もどこかに胡散霧消してしまった。
僕だけのことかもしれないが、最近では、酒屋が転回する割安なワインレストランが、懐具合的にも、気分的にも十分になっている。そもそも、そんなに飲みつけていたわけではないワインである。「何にしましょうか」と聴かれたところで、何がわかるわけでもなかった。
「小説家は耳を澄ませながら深紅に輝く、若い酒の暗部に見とれたり、一口、二口すすって噛んだりした。いい酒だ。よく成熟している。肌理がこまかく、すべすべしていて、くちびるや舌に羽毛のように乗ってくれる。ころがしても、漉しても、砕いても、崩れるところがない。さいごに咽喉へごくりとやるときも、滴が崖をころがりおちる瞬間に見せるものをすかさず眺めようとしているのに、艶やかな豊満がある。円熟しているのに清淡で爽やかである。つつましやかに微笑しつつ、ときどきそれと気づかずに奔放さを閃かすようでもある。咽喉へ送って消えてしまったあとでふとそれと気がつくような展開もある。」
開高健の作品の中で、一番好きな、「ロマネ・コンティ・1935年」を読み返すのは何度目だろう。
高級なワインの精緻な味わいを堪能するような舌は持ち合わせていないが、優雅な日本語の文章を味わう「舌」にはそれなりの自信がある。
ある意味、ワインが飲めるレストランに通うのは、ワイン自体が好きというよりは、この短編小説の中で、舌の上でワインを転がすような読書体験を、追体験するためのようなところもある。イタリアンであれ、フレンチであれ、どこまで行っても、洋食というのは、僕にとっては抽象的概念の一つなのだろう。
最初に読んだのがいつかはさすがにもう覚えてはいない。でもこの文庫を何度も買い直していることだけははっきりしている。
何度目かはともかく、書店でこの本を買った、ある時のことはよく覚えている。
30代前半ぐらいと何十年も前のことになってしまったが、ビジネスの世界で、大成功したわりには、その性格があまり変わらない友人のパーティに招かれた時のことだ。
彼自身、そんなパーティを開くなどという柄でもなかったが、最初の結婚に行き詰まって、豪邸での一人暮らしの孤独をはらしたくなったのだろう。
「ロマネ・コンティ飲みに来ない?」という電話だった。
小説の中の抽象的単語が、突如、現実の世界に現れたのだ。
かなり大酒を飲んだ記憶があるが、うまかったのかどうかなど、まったく覚えていない。当時、これは美味いと心底思ったかどうかも怪しいところだ。
不思議に、二日酔いがなく、後日、「どうだった?」という彼に、「二日酔いだけはしなかった」と答えて白けさせたような気がする。
そんなこともあって、なんとなく、気になって、本屋で何度目かの「ロマネコンティ」を手に取ったわけなのだ。
当時の若造には、開高の、老練な筆先から、溢れでた、こんな件の妖艶さを味わうことなどできるはずもなかっただろう。
この物語は、二人のワイン通が、満を持して開けたロマネコンティの質が悪いのに愕然とするという話だが、落胆の中で、そのワインの来歴を描写する部分が見事だ。
「もともと感じやすくて、若いうちに美質を円熟させるようにと生まれつき、そのように育てられていたこの酒は、フランスの田舎の厚くて、深くて、冷暗な石室のすみでじっとよこたわったきりでいるしかないのに、旅をしすぎたのだ。それが過ちだったのだ。ゆさぶられ、かきたてられ、暑熱で蒸され、積みあげられ、照らされ、さらされ、放置されるうちに早老で衰退しまったのではないか。(中略)
早熟だけれど肉がゆたかで、謙虚なのに眼のすみにときどきいきいきした奔放が輝くこともあった。爽快そして生一本だった娘は、旅をさせられるうちにあるとき崩れ、それからは緑色の闇のなかでひたすら肉を落としつづけ、以後の旅はただゆさぶられるまま体をゆだねてきた。今夜はじめて外へ出されはしたものの、腕はちぢまり、掌は皺ばみ、鼻が曲り、耳に毛が生え、くぐつながらに、背を丸め、息をするのがせいいっぱいで、一歩もあるけそうにない。」
飲む、打つ、買うという重層的な大人にしか書けない、官能がそこにはある。当時の自分の年齢の倍ぐらいに近づいて、このあたりが少しぐらいはわかるようになったかもしれない。
しかし相変わらず、ワイン通というレベルには達していないし、達するという意欲もとうにない。
件の友人と久しぶりに食事に行ったときのこと。
酒は何にするという彼に、「じゃあ赤で」と答えると、しばらくの沈黙があった。
「初めっから赤ワインなんて胃に重たいもの頼むなんて、随分、胃が頑丈なんだなあ」と皮肉でもなく、心底、感心している様子が、やけに可笑しかった。
この友人も、そもそも、ワイン通なんてものに、これっぽっちの価値も見出すタイプではなかった。
お互い、ようやく自分の背丈に見合ったところに落ち着いてきたのだろう。それも含めて、人生の熟成なのだと思う。
築地本願寺で往生ということについて考えた
2017年4月4日(火)晴 17℃ 110.698¥/$
また古いノートを眺めていた。
2011年3月6日というから、その後、僕たちの生活を一変させてしまうことになる大地震の5日前の日曜日に、僕は、神保町の東京堂書店の平積みから一冊の本を手に取った。
きれいな装丁のその本の書名は「清冽;詩人茨木のり子の肖像」。
清冽―詩人茨木のり子の肖像 | 後藤 正治 |本 | 通販 | Amazon
著者は、ノンフィクションライターの後藤正治さん。
「倚りかからず」や、「詩の心を読む」など、広い読者を持つ、詩人茨木のり子のしなやかで強靭かつ、繊細な人生を静かに描いている。
『もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
自分の耳目/自分の二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
よりかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ』
1926年(大正15年)生まれの茨木のり子は、その前の年の雛祭りに88歳で亡くなったぼくの母親とほぼ同世代である。ある種のリベラルとしかいいようのない、共通する気質を、後藤が描き出す茨木のり子の人生の中に感じた。
天皇の戦争責任の対する発言への憤懣のようなもの、直接的な戦後左翼的物言いとは違った屈折。
『戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては、止まり、また噴きあげる』
静かな、小さな本である。しかし、その端々に、ノートに書き取っておかずにはいられない、気持ちを揺さぶる言葉が溢れている。そして読者はその後、その揺れる感情を誰かに伝えずにはいられなくなる。大地震の後、僕は、この本を、義理の母の誕生日に、ティクナットハン師の「ブッダ伝」と一緒に手渡した。敬虔な門徒である母が、この凛とした佇まいの本の表紙を大切そうに撫ぜていたのが強く記憶に残っている。
小説ブッダ―いにしえの道、白い雲 | ティクナットハン, Thich Nhat Hanh, 池田 久代 |本 | 通販 | Amazon
読む人それぞれに、さまざまな想いを喚起するのだろう。
僕の中で、茨木のり子の最期とその予め書かれた遺書に、ある冬の朝、一人、天に戻った父の人生が重なりあった。僕の父は葬儀は密葬で、戒名はいらないと克明に、自分の後始末について指図して逝った。
茨木のり子の別れの手紙。
『「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか・・・。深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。ありがとうございました。』
一つの言葉、一つの意味、一つのエピソードに要約して済ますことはできない。読み手がこれまで生きていた人生の様子次第で、異なる方向へとその細い糸がどんどんと広がっていき、読者それぞれの時間の織物が編み上げられていくというような書物だ。
この日曜日に、築地本願寺の法要の間で、家族だけで、若い僧侶の読経の声の中、阿弥陀如来の仏画に手を合わせた。読経と焼香の後の、法話で往生を語る彼の言葉を聞きながら、ちょうど読み終えた柳美里の小説の中の一節を思い出していた。
『浄土真宗の教えでは、亡くなるということは、往生と言って、仏様に生まれ変わるということなので、悲嘆に暮れることはありませんよ。
阿弥陀仏様というのは全ての命を済うと言ってくださった仏様です。南無阿弥陀仏というお念仏を称えてくれさえすれば、それだけでお前を済うと言ってくださっています。
済うということは真実の悟りを開かれた仏様に生まれ変わる、仏様に生まれ変わるということは、我々を済ってくださる側の方に生まれ変わるということです。
阿弥陀仏様のお手代わりとして、今度はこの我々を、今この娑婆で苦しんでいる我々を済うために、阿弥陀仏様より位が下の菩薩となって還ってきてくださるんですよ。
だから、亡くなったら終わりなんてことはあり得ない。亡くなった方は、我々が称える南無阿弥陀仏というお念仏の中で我々を導いてくださっているんですよ。
お通夜もご葬儀も、四十九日の法要も、亡くなった方の冥福を祈ったり、供養や追悼や慰霊をしたり、菩提を弔うための儀式ではない。亡くなった方が仏様とのご縁を我々に与えてくださったという感謝のために行うのです。
一周忌も同じ、一周忌という仏縁を我々に与えてくださり、お浄土で逢うことができるようになるまで、しっかりとお前たちを育て上げていきますよ、と亡くなった方が我々を育ててくださっているんですよ』(柳美里 JR上野駅公園口)
周りの反対を押し切った密葬には、結局、多くの人がかけつけてくれ、自分も確信犯的に父親の意図を裏切った結果、父親には戒名がある。
密葬と書き残して、父が、天に還ってから、13年という歳月が流れたことになる。
故郷喪失者たち(柳美里 「JR上野駅公園口」)
2017年4月3日(月)15℃ 晴れ時々曇り
111.378 ¥/$
上野駅から長い夜行に乗って田舎に帰るという経験は自分にはない。良くも悪くも飛行機の時代になっていたからだ。ただ故郷が北国の人間ならではの、ノスタルジーのようなものがあるのは認める。ラジオで、歌謡曲の作詞家が、「歌の核のところにあるのはノスタルジーだ。」とつぶやいていた。対象のないノスタルジー。若い少年少女が、この曲、懐かしいと連呼するあの心理。
人間というものは、常に、どこにあるのかわからない故郷というものを探し求めているようだ。
それは物理的地名によって特定されるものではない。実際に生まれた土地、生活していた土地であっても、年月が経てば、親は死に、係累は消え、家はなくなり、地縁も消える。SNSの時代と言ってみても、そこで取り戻されたかに見える友愛も、仮初にすぎず、再び時の経過の中で、昔より急激に衰退していく運命にある。
柳美里の「JR 上野駅公園口」と言う小説は、誰にとっても、故郷は絶対的に失われるという人間世界の逃れえぬ鉄則を陰画のように描き出している。
福島の相馬出身で、今上天皇と同じ生年月日の上野公園のホームレスの人生。彼は、家族を育てるために、出稼ぎに出る。東京オリンピックなどの末端労働力として、彼らは高度成長という時代を文字通り、その腕一本で築き上げていく。歴史に名を遺すような形ではなく、同時代においてさえ無名の民として。
故郷の家族を支えるために、彼は故郷に帰ることができないという宿命の旅を続ける。そして、ようやくの帰郷と、数年の妻との安らかな生活の後、育てあげた皇太子と生年月日が同じ、息子を失い、立てつづけに、妻を失う。そして老境の自分を支える孫娘もまた。
関係性としての故郷を失った男は、再び、東京行きの電車に乗る。
行くあてのない彼が、たどり着いたのは上野恩賜公園。そして山狩りという「儀式」。
『天皇家の方々が博物館や美術館を観覧する前に行われる特別清掃「山狩り」の度に、テントを畳まされ、公園の外へ追い出され、日が暮れて元の場所に戻ると、「芝生養生中につき立ち入らないでください」という看板が立てられ、コヤを建てられる場所は狭められていった。
上野恩賜公園のホームレスは、東北出身者が多い。
北国の玄関口――、高度経済成長期に、常磐線や東北本線の夜行列車に乗って、出稼ぎや集団就職でやってきた東北の若者たちが、最初に降り立った地が上野駅で、盆暮れに帰郷する時に担げるだけの荷物を担いで汽車に乗り込んだのも上野駅だった。
五十年の歳月が流れて、親兄弟が亡くなり、帰るべき生家がなくなって、この公園で一日一日を過ごしているホームレス….
公孫樹の木の植え込みのコンクリートの囲いに座っているホームレスたちは、寝ているか食べているかのどちらかだ。』
作者の意図が、どこにあるのかはわからない。福島という特定の地域の悲劇を語ろうとしているのかもしれない。しかし、そこから、立ち上ってくるのは、家族というものを絶対的に支配する鉄則である。
家族は絶対に滅びのサイクルから逃れることはできない。
かりそめの平安を、自分が得ることのできるのは、なぜか。
親を弔い、地縁が消えていった後に、故郷と自分を繋ぐものは、自分がそこに生まれたという物語に過ぎない。その物語は、明らかな意志を以て書き換えられることなしには命脈を保つことができない。故郷を捨てた多くの人々に、その余裕はない。
とすれば、住み着いた場所で、新しい居場所を作るしかない。新しい居場所を見つけたものだけが、自らの「故郷」(=居場所)を、漂白された物語の中で再生することができる。
出稼ぎの中で、いくつかの不幸によって、故郷を捨てた男は、そこに「故郷」がないことに気づいたのだ。しかし、この男と僕の距離はそれほど遠くない。
ある日、老境にさしかかって、ほとんどの人間が、自分の「故郷」を喪うのだ。
(痴呆が過酷な現実に対する、一つの慰謝になるという、救いようのないアイロニー)
『てのひらをこちらに向け、揺らすように振っているのは天皇陛下だった。
駅側の人々に手を振っていた皇后陛下もシートから背中を離してこちらに会釈をし、きれいに指を揃えた白いてのひらを揺らした。皇后陛下のお召し物は、白や薄紅色や鴇色や茜色の散り紅葉が肩山から共衿を流れる灰桜色の染の小紋だった。
目と鼻の先に天皇皇后陛下がいらっしゃる。お二人は柔和としか言いようのない眼差しをこちらに向け、罪にも恥にも無縁な唇で微笑まれている。微笑みからも、お二人の心は透けては見えない。けれども、政治家や芸能人のように心を隠すような微笑みではなかった。挑んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生――、自分た生きた歳月と同じ七十三年間――、同じ昭和八年生まれだから間違えようがない、天皇陛下はもうすぐ七十三歳になられる。昭和三十五年二月二十三日にお生まれになった皇太子殿下は四十六歳―、浩一も生きていれば四十六歳になる。浩宮徳仁親王と同じ日に生まれ、浩の一字をいただき、浩一と名付けた長男――。
自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官に取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
なにか――。
なにを――。
声は、空っぽだった。
時分は一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。』
多くの人がこの寄る辺ない気持ちを抱えて生きている。この寄る辺なさを、そのままにして、何の支えも求めずに生きられるほど人は強くない。私たちの世界はこの「寄る辺なさ」を中心として揺れ続ける。捏造された永遠性が、この気分を搾取しようと待ち構えている。
死に場所という居場所しかないと言う事実。
痛切な読後感が残った。