21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

2011年3月11日(金)14時26分 東京

2017年3月12日(日)12℃ 晴れのち曇り

 

昨日で、東日本大震災から6年が経つ。直接の被害者ではなく、この記憶においてもむしろ口ごもることばかりなのだが、時の速さというほどには、自分の中で、3月11日は風化していない。

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digital.asahi.com

 

東日本大震災から11日で6年となった。死者は1万5893人、行方不明者は2553人、震災関連死は3523人にのぼる。ふるさとを離れて避難先で暮らす人はまだ約12万3千人おり、東京電力福島第一原発事故のため、約5万6千人が国の避難指示を受けている。地震のあった午後2時46分、各地では亡き人びとへの祈りが捧げられた。』

当時の日記を読み直してみた。出来事のあまりの巨大さに圧倒され、事実を観察することと、自分の精神状況を守ることに必死だったことだけがよくわかる。特に、津波という見える脅威が、放射能という見えない恐怖に重なっていく中で、不確実な情報の中で、パニックに陥らないための情報との距離感を保とうと必死だった。


(以下日記より)


2011
年3月11日(金)14時26分

南北線に乗っていた。永田町の駅で、停車時間がちょっと長いのかなと読んでいた本から目をあげると、車両が揺れはじめた。地震だ。随分、大きいし、長い。乗客は、判断に困っていた。地下鉄が動き出すのを待つべきかいなか。

ぼくは、雑踏が嫌いだ。すぐに、地上に出ることにした。まだ、出口へ向かう人の流れはまばらだった。改札は、オープンになっていた。途中エスカレータが止まっていたりする中、黙々と地上を目指した。

地上に出て、最初に気づいたのは午後3時にしては、路上に多くの人がいることだった。オフィスビルの前に、多くの人々が集まっている。それがビルごとに起こっているので、路上は途方に暮れた表情でいっぱいになった。

携帯電話は案の定、全く機能しない。メールも見られない。

次の目的地の新宿には行けそうもないと瞬間に思った。

ビルの前に立っている人の中には、ヘルメットと防災バックを抱えている人もいた。ある女性は、もう怖くて、ビルに戻れないと泣き顔の人もいた。

地下鉄の中で感じた揺れも、高層ビルの中では相当に増幅されたのだろう。

携帯ラジオをつけると、震源地が東北地方であることや、津波の危険があることが繰り返し報じられている。携帯電話を忘れても、ラジオだけはいつも身につけていた。こんな時のためだ。

他人は、神経質すぎると笑うが、実際、数年に一度は、携帯ラジオを身につけていてよかったと思うことがある。

人どおりが少ない路地を通って内堀通りに入った。英国大使館近くは、ヘルメットをかぶった外国人たちが目につく。左手に英国大使館を見ながら歩いていると、千鳥足のようになった。かなり強い余震だ。ラジオも、スタジオが揺れるので、リアルタイムにパーソナリティが、余震について報じている。

しばらく、立ち止まって、電柱の先の避雷針が揺れるのを眺めていた。

内堀通りを抜けて、靖国神社についた。トイレを探して、神社に入った。靖国神社は、防災拠点になっているらしく、勤め人の集団でいっぱいだった。神社の左奥の方にある池の前のベンチに座って、PCを開いた。やはりネットには繋がらない。しばらく休憩しながら、どうしようかを考えた。

おそらく、オフィスは、同様な状況だ。となれば、ワイアレスではネットに接続できないとすると、接続性を回復するには、自宅に戻って、ケーブルに繋ぐことだと思った。歩けないほどの距離でもない。

とんでもない金曜日になってしまった。

携帯ラジオがあるので情報は逐次アップデートされた。どんどん地震の大きさが伝えられる。靖国通り外堀通りと歩いていると、自然、帰宅の波の中に巻き込まれた。比較的早い時間だが、帰宅の指示がでた企業も多いのだろう。

数時間歩いて自宅についた。

ケーブルを繋ぐと、ウェブは正常に機能している。停電にもなっていないようだ。余震は続いている。オフィスは、地震の時点で閉めて、社員に帰宅指示をしたようだ。皆、徒歩で自宅を目指しているようだ。

それ以降は、テレビもラジオも震災放送一色で、息を飲むような津波の映像が、繰り返し流されていた。

ツイッターやメールで知人の安否確認をしたり、外で、復旧を待っている社員や家族に対して、繋がりにくい携帯やメールで、地下鉄の復旧状況を逐次伝えたりしているうちに、3月11日は過ぎていった。

東京でも余震は続いている。

自然というものは、こうして淡々と、人間の暮らしというものが、根本的な無根拠性に基づいていることを、暴力的に知らせようとするのだ。

2011年3月12日(土)

地震からあけた土曜日。余震は続いている。東北地方の被害の大きさには言葉を失うほどだ。

宮城県沖地震を仙台で経験した。当時も縦揺れと横揺れがひどく、アパートの中もめちゃめちゃになり、しばらくガスや水道が使えなかった。そのときも、地震は午後に起こったように記憶している。夕飯の支度が始まる前だったので、火災がほとんど起きなかったのが被害を最小にした。津波も起こらなかったはずだ。

多くの溺死者が仙台市の海沿いの街ででたということが衝撃だ。

その後も、大船渡の街が津波に飲み込まれるシーンが繰り返し流された。そのマグニチュードのあまりの巨大さに、リアルに感じられない。

東京の交通機関も地下鉄は皆復旧し、それ以外も、通常の3割から5割の運行状況にもどりつつある。コンビニの棚は、補給が遅れているせいか若干まばらになっている。とはいえ、東京は通常を取り戻しつつある。

むしろ、ツイッターなどを見ても、福島の原子力発電所メルトダウンのリスクの方にも関心が向き始めている。

スリーマイル、チェルノブイリメルトダウンという言葉が、定義定かじゃない形で、伝えられ、不安を増幅する。

枝野官房長官による状況の説明の映像ばかりがテレビから流されている。

放射能汚染のリスクの度合いがわからぬままに、不安感だけが増している。

危機管理の中では、当然ながら、すべての情報を開示すべきかどうかという判断がなされることになる。それに対して、ツイッターを中心とした識者たちが批判を加える。

危機状況においては、パニックを抑えるということが至上命題のように思われる。こういった事態での、情報の氾濫を平時の感覚で評価すべきなのだろうか。

2011年3月13日(日)
日曜日。後楽園、有楽町、秋葉原、神田、神保町などを歩く。

日曜日にしては、街に出ている人が少ないということ以外はいつもと変わらぬ風景だ。

コンビニで、水が見当たらないことや、スーパーが大混雑、家電量販店で携帯ラジオが売り切れというようなことが目立つぐらいだ。

テレビ報道は、テレビ東京がアニメや通常番組を流している以外は、同じように、震災の悲惨さの映像を垂れ流している。

ラジオは、FM東京上杉隆さんをパーソナリティにして、音楽と震災情報をバランスさせた極めてクオリティの高い番組を流していた。

福島原発では、避難地域が20Kmと拡大。メルトダウンという言葉が無定義に使われることに違和感を感じた。

20
時過ぎからは東京電力計画停電の情報が流れ始める。本日の電力需要が4100万KWであるのに対して、供給が3100万KW。これを放置すると、一斉大規模停電が生じる可能性があるので、該当地域を5グループに分けて、かわるがわる停電させるという手法を取るとのこと。

しかしこの輪番停電は、公共交通や水道、信号などのライフラインに重大な影響を及ぼすことになる。

公共交通では、山手線、丸ノ内線、銀座線が従来通りの運行。それ以外は、地域限定運行、運休、大幅な間引き運転が行われるので、通常の通勤は避けるべきと。

電力制限の中での経済活動の初日が始まることになる。

 

2011年3月14日(月)

東電輪番停電の情報、交通情報などが、安定しないこともあって、朝の通勤は混乱したようだ。

早朝に動いたので、乗り継いだ営団地下鉄は順調に運行した。

オフィスの状況を確認し、従業員の通勤可能状況をメール等で確認し、原則在宅勤務の指示をして、帰社することにした。山手線は、2割程度の運行とかで、大変な混雑で、ゆっくりとした速度。

移動中もラジオを聞いている。福島原発の状況の進展が小刻みに告げられ、そのあいまに、輪番停電が開始するかどうかのニュースと、被災地の情報が流れる。

JR,地下鉄、東京電力と、未曾有の災害に必死で対応している。マスコミの質問の、批判的な口調が、神経に障る。

責任者を出せというトーンはやめてほしい。このトーンが、多くの人間の心の中にとても重い澱のようなものを蓄積させる。

疲労感が強い。

夕方の池袋。壁面の映像広告をやめているせいか、いつもよりも暗い。しかし、いつもよりも夜らしい。夜らしい夜を思い出すべきなのかもしれない。

 

2011年3月15日(火)

東京も余震が続く。計画停電、公共交通の運行状況が低水準。テレビ放送がすべて被災地の悲惨さを報じるという異常環境の中で、直接の被災地ではない場所に住む住民の心理にも大きな影響を及ぼしている。

精神衛生上、自分にかかわりのある部分にだけ集中することにした。

特に、ツイッターやテレビで、福島原発の動向について一喜一憂するのをやめた。

情報を最大限集めて、自ら判断することに、現状ではあまり意味はない。

現状は、政府、東京電力自衛隊などの判断に委ねざるを得ない。ぼくはむしろマスコミ等の批判とそれに伴う世論というものへの配慮が、結果責任だけを追求すべき、鋭角な判断と行動に悪影響を与えることをぼくは恐れる。

今、マスコミが何を言おうと、この環境で危機管理にプラスの影響を与える可能性は少ない。いきおいパニックを生み出すだけだ。

彼らが確信犯的覚悟のもとで生み出した帰結に対する結果責任を事後的に問うこと、それが政治ということである。

ぼくは、停電情報、列車運行状況だけにフォーカスして、パニックに陥らぬようにし、前を向いて自分の人生を生きようと思う。

 

全体の交通状況を踏まえているわけではないが、少なくとも、南北線都営三田線白金高輪までしかいかないこと、終日この状況が変わらないことだけは社内アナウンスや駅員の説明でわかった。

電力不足というものが、ここ10数年の未曾有の利便性というものを否定しているということだけは明らかだ。都心まで何十分という謳い文句で販売された比較的郊外からの、一斉通勤というモデルが現時点では崩壊しているわけだ。

この電力状況を前提とするならば、一斉通勤というモデルが変化せざるを得なくなるのだろう。

NHKのニュースは、福島原発問題。この問題は、伝えている人間も、受領している人間も、中途半端な知識しかないということだ。

さらに専門家と呼ばれる人々も、原発の危機管理の総合的専門家などという人はいるはずもなく、それぞれの領域の中では正しい発言を繰り返すことが、一般の人間にとって一番重要なこと、自分にとってそれがどんな意味を持つかということへのシンプルな回答が知りえないという結果につながり、フラストレーションと混乱を招くことになる。

Evacuation zoneに住む人々と、それ以外の人々にとって必要な回答は、当然ながら、同じではない。

Aという地域の人には大変だが、Bという地域の人は大丈夫ですよというメッセージは公共放送という立て付けでは難しい。

政府のパターナリズムによる情報統制がうまく行かないのは、こういった複数の当事者に対する妥当なメッセージを出すことが極めてハードルの高い課題だからだろう。

 

2011年3月16日(水)晴天
地下鉄のキオスクで久しぶりにヘラルド・トリビューンを買った。最近は、さほど日本が取り上げられることもないので、ウェブで済ますようにしていた。3月11日以降は、当然ながら、日本のニュースが一面を賑わせている。こんな形で、賑わせることはきわめて残念だ。基本的に日本のマスコミの能力に対する不信感が強いので、報道というものを強く必要とするようになると、いきおい、海外報道に頼ってしまう。

彼らがすべて正しいとは思わない。ただし、日本政府、東電などに対する配慮が相対的にないという点では、一面の真実を表すはずだ。

Nuclear Plan in Japan on the brink(By Hirko Tabuchi, David E. Sanger, and Keith Bradsher)

瀬戸際の日本の原子力計画という記事の中のこんな一節。

The succession of problems at Daiichi was initially difficult to interpret, with confusion compounded by incomplete and inconsistent information provided by government officials and executives of the plant’s operator, Toyo Electric Power.

(第一原発で連続して起こった問題を読み解くことが当社は困難だった。理由は、政府当局、東電の経営陣が、不完全で、整合性のない情報の提供を行って、混乱を招いたことが原因である。)

このあたりの情報開示における不誠実さを、上杉隆さんなどのフリージャーナリストが、ツイッター、Uストリームなど新しいソーシャルメディアの中で、批判し続けている。

たしかに、地上波テレビの報道は、NHK以外は見るきがしない。

少々毛色の変わった視点としては、
A disaster, yes, but not a deterrent( Heather Timmons and Vikas Bajal)
日本の災害は、インド、中国の原子力計画を一切抑制しないという記事。

曰く、インドや中国など経済成長をしている国は、今回の日本の事故によっても、今後の原子力発電の政策の変更を考えていない。まだまだ国民に十分な電気が行き渡っていないのだから、自分たちは、原子力発電という選択肢を外すことはできないということだ。

欧米先進国においては、間違いなく反原発の動きが勢いを増すはずであり、このあたりには、南北問題的な違いが生じてくるのだろう。この記事の細かい点でなるほどと思ったのはGEと原子力発電所のプロジェクトを考えているインド政府が、その契約の中に、事故の際の発電所プラントのサプライヤ(GE)に対する賠償責任の条項を盛り込もうとしてもめているという件だった。通常はオペレーターに対する賠償責任条項をあっても、サプライヤーに対する責任条項は盛り込まれてこなかったわけだ。今回も、福島原発は確かGEだと思うが、契約上、責任は及ばないわけだ。

昨今の報道の中で、一番重要性を持ってきている使用済み燃料棒のリスク(spent fuel rods)については、

A radioactive peril that’s ‘worse than a meltdown’(BY William J. Broad and Hiroko Tabuchi)

という記事が詳しい。

使用済み燃料棒のリスクは、現在使用されている燃料棒に比べればリスクが低いという発表が東電からなされているが、この記事の中で、インタビューに答えて、David A. Lockbaumという原子力エンジニアが意見をいっている。

使用済み燃料棒においては新しい方が古いものよりも発熱性は高い。冷却プールの中で、数日から1週間近く、プールの水を沸騰させ続ける可能性がある。プールの水が枯渇し、燃料が露出すると火災になる可能性があると述べている。

現実に直近で起こっていることの中にはこういった事態も含まれているのだろう。

「使用済み燃料棒が数ヶ月前のものならば、その最も危険な放射性副産物の一つであるヨウ素 131は無害な形に分解される。しかしセシウム137の場合は、半減期half-life)が30年と長く、放射能を1%レベルにまで低下させるには2世紀かかることになる。

1986年にメルトダウンを引き起こしたチェルノブイリ発電所の周辺の土地を依然として汚染しているのはこのセシウム137なのだ。」

最近、使用済みのプールが着目されているのは、この放射能汚染のリスクの故なのだろう。


外国人が一斉に日本から逃げ出しているというツイッターなどで伝えられる情報については、

Problems intensify for survivors (BY Martin Fackler and Mark McDonald)
という記事の中でこんな風に報じられている。

「連続する原発事故の影響で出国を急ぐ外国人が急増している報道に対して、ある西側外交官は、火曜日の夜に、こういったanecdotes and rumors(ここだけの話や噂)が外国人コミュニティの中で出回っていたと発言した。

ただし、未だ大量出国というような事実は見受けられていないようだ。ちなみに米国大使館は在日米国人に対して、出国勧告はしていない。」

ルース米国大使は、東北5県に1300人の米国人が居住することを明らかにした。現在大使館は、米国人の安否確認を急いでいる。

さまざまな情報の中でぼくが一番大切だと感じたのは、
Radiation Exposure Could Curtail Workers’ Efforts(By Henry Fountain)
原発事故に対応する上で東京電力が直面しているもっとも深刻な問題は、労働力不足であるという内容の記事だった。(日記以上)

 

精神的な不安感や、生活上の若干の不便はあるものの、東京の生活は、急激に元通りになっていった。その一方で、東北地方を中心に、被害は制御不能な形で拡大していった。ぼくは、それにつれて、語る言葉を失っていったことを記憶している。

 

若松英輔さんが、日経新聞の今日の朝刊に「それぞれのかなしみ」という文章を投稿していた。その中の、こんな文章に、当時の記憶が共鳴した。

 

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20170312&ng=DGKKZO13915570Q7A310C1BC8000

『他者の悲しみを感じ取るのは、悲しみを生き、哀しみの花を内に秘めている人だろう。私はこの六年間に被災地で幾人もそうした人々に出会ったように思う。彼らは他者に同情するのではない。ただ、哀しみによって共振する。世に同じ悲しみなど存在しない。だが、異なる悲しみだからこそ、共鳴し、そこに常ならぬ調べを生むのである。

 

 憐れみと同情は似て非なるもの、というよりもむしろ対極にあるもののように思われる。同情するとき私たちはしばしば他者に励ましの言葉をかける。同情は、心ない言葉によって表現され、人を傷つけることが少なくない。

 

だが、真に憐れみを感じるとき人は、それを沈黙のうちに表し、相手もそれを沈黙のうちに受け取っている。』

 

自分の想像力の中でさえ圧倒的な悲劇に直面して、無傷である自分が、悼むという言葉を発することさえ憚るような沈黙に押しつぶされていたのを記憶している。

 

映画 ブラックブック 裏切りの歴史とオランダ的寛容

2017311日(土)

思えば、10年以上前から、オランダというのは自分にとって気になる国だったようだ。サッカーファンとしてトタルフットボールの祖国への愛情がほぼすべてを占めていたような気もするが、それだけではない、論理が先鋭になる、ある意味、奇矯、異形な国オランダの中に、欧州の歴史の光や闇が横溢しているという予感のようなものがあった。2007年にポール・バーホーベンのブラックブックという映画についての感想を、今とは違ったサイト名で書いたことがある。

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www.youtube.com



後を引く、後味の悪さに限りなく近い、この映画の暴力性にひどく神経を逆なでされた記憶がある。いい意味でも悪い意味でも強烈な映画だった。315日のオランダ総選挙に向けて、オランダのことを考え続けるうちに、忘れかけていた自分の過去の記憶が数多く喚起されることになった。

 

裏切りの歴史とオランダ的寛容(200748日)

ポール・バーホーべンが、故郷のオランダに戻って、撮った、ブラックブックを見た。

オランダ時代の彼の作品を見たことがないぼくには、68歳のオランダ人映画作家に、ハリウッドが何を与えたのかを正確に言うことはできない。ただ、ナチス占領末期の、レジスタンス、コラボ(対独協力者)、ナチの絡んだ、複雑な裏切りと復讐の映画の中には、「氷の微笑」、「ショーガール」など、彼が、ハリウッドで撮った映画の刻印がある。

 

肉感的な女主人公に対する、いたぶるような視線は、彼の作品の中の、女嫌いを想起させる。

 

ナチス占領末期、スターリングランドの敗戦後、斜陽のナチスドイツに対して、激化するレジスタンスと、対独協力者たちの、戦後を見据えた自己保身がからみあって、誰が、誰を裏切ったかが最後までわからないというサスペンスドラマが展開する。

 

オランダのレジスタンスが正義で、ナチスが悪で、一般のオランダ人が善良であったというような、白黒のはっきりした歴史観に、悪意ある泥を投げかけている。アメリカのイラク侵攻、アメリカ軍による捕虜虐待というような時代背景の中で、ハリウッド的な娯楽映画的なけれんと、かなり露骨な政治性が、混濁しているという意味で、不思議な面白さのある映画だ。

 

映画は、戦後、1956年のイスラエルキブツのシーンからはじまる。美しいユダヤ人女性の追想は、第二次世界大戦末期のナチス占領下のオランダへと飛ぶ。元歌手の主人公は、ナチスの高官と、協力者による、ユダヤ人の富裕層の財産を狙った罠にはまって、家族をすべて殺害される。

 

九死に一生を得た、彼女が助けられたのは、オランダ人のレジスタンスの人々だった。彼らに保護されながら、彼女は、レジスタンス活動の中に積極的に参加していくことになる。主人公には、美しさという武器があった。

 

彼女に、その美貌を使って、ナチスの高官に近づき、とらえられたレジスタンスの仲間たちを助けるという任務が与えられる。(ユダヤ性を隠蔽するために、陰毛まで金髪に染めるという、この監督らしいあざといシーンがある。)自分の肉体を武器に、ナチスの高官との関係を作り、ナチス内部の仕事も獲得し、内部に入りこんでいく。そのうちに、男を愛し始める女。女の正体を知りながらも、女を守り続ける男。

 

内通者のために、とらわれた仲間の奪回作戦が失敗し、女は仲間たちからも、裏切り者と疑われるようになる。そして、ナチスは降伏し、形勢は一転し、ナチス協力者たちに対する、手ひどい復讐がはじまる。オランダの普通の人々による、コラボへの残虐さを描くあたりで、このどちらかといえば凡庸な映画が精彩を発揮しはじめる。

 

ルイ・マルの「ルシアンの青春」のような繊細なタッチではなく、コラボを攻める人々の醜悪な表情、振りかけられる糞尿など、荒々しく、雑駁に、その不快さが描かれる。映像の不快さが、おきた事実の腐臭を、ある意味、みごとに描写していた。

 

本当の内通者は誰か。主人公はくじけずに追及しつづける。

 

この映画における戦後オランダに対する批判に対する質問に答えて、バーホーベンはこんなことを言っている。

 

「終戦後、怒りと復讐の気分しか存在しなかった。その気持ちは、ドイツ人の兵隊たちに向けられるというよりは、ドイツ人に協力したオランダ人たちに対して向けられた。売春婦たち、軍で働いていた人々、実務的、政治的、あるいは金のため、イデオロギーのため、なんらかの形で対独協力したすべての人々がターゲットになったのだ。これらの人々はすべて、オランダ人によって裏切り者とみなされ、一切、容赦されなかったのだ。

 

路上でつかまり、女は、髪の毛を切られ、泥が顔になすりつけられ、糞尿を浴びせられ、牢獄にぶちこまれた。恐るべきことが行われたのだ。戦時の歴史文書にはこういったことが、大量に残されている。私が映画で描いたことより、はるかに醜悪なことが行われていたのである。Abu Ghraibで起こったこととなんの変わりもないのだ。」

 

言語も近い、オランダはドイツ占領時も占領者からひどい扱いは受けなかった。そのため、ドイツの傘の下での共存というものも、真剣に考えられたのだろう。であればこそ、対独協力というものも、十分に当然の行為だったのだろう。

 

ドイツの形勢が不利になってきてからはレジスタンスが強まり、敗戦を意識したナチス高官や、戦後におびえ、証拠隠蔽をはかる、コラボたちや、レジスタンスの中の内通者などの間で、この映画のようなことが起こったとしても何の不思議もない。

 

バーフォーベン流の粗い映画を、映画として語る気はあまりないが、その粗雑さというところに露出する、この祖国オランダの歴史に対する徹底した悪意が面白かった。それは、このオランダ的混乱が、今日現在のオランダの歴史にも明確に影を落としているからだろう。

 

 

オランダは、売春、同性愛への認容、そして移民への寛容で有名である。こうした過激ともいえる寛容さには歴史的背景があるのだ。

 

オランダ人は、自国民に対して、容赦がなかっただけではない。積極的な対独協力者たちは、ナチスの重要政策であるユダヤ人狩りにも積極的だったのである

 

ナチスの占領当初、オランダには14万人のユダヤ人がいたが、そのうちの実に75%が殺害されたという。 自分たちのすべてがアンネ・フランクを助けたわけではないことが、戦後あきらかになる中で、恥の意識が、オランダ人の心を深く支配するようになっていった。その結果、移民を批判することがタブーになっていったという。戦後の移民に対する意識は一種の償いという形で理解されるようになっていった。

 

いま、イスラムの移民の波の中で、こういった歴史的な負い目と、目の前の現実の容赦のなさの中で、歴史の中のユダヤ問題が心理的に沸騰しはじめているのだろう。それは逆撫でするという、この映画作家の悪意の部分にとても興味がわいた。

 

迫害の経験のある、ユダヤ人は、オランダ人は偽善者であると批判する。

 

「オランダ人を20人集めてみればいい。すぐに彼らは愚かなムスリムをどうやって追い出すかの相談をしはじめるだろう。でも彼らはそれを直接的には言わないだけだ。」

 

短期間で手のひらを返すように変質するのを国民性だと非難する。

 

世界は似たような愚行で満ちている。映像的な奇跡ではなく、人間の自己満足を破る騒音としての映画。それはそれなりに興味深い存在だ。(以上)

 

 

 

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負債感、偽善、そして希望(オランダの寛容の美徳の危機 その3)

2017年3月11日(土) 12 晴れ時々曇り

 

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12年前のオランダでも、欧州の移民についての問題はすべて出尽くしていた。

 

その後、2015年のシャルル・エブド事件や、フランスでのテロ事件と、欧州をテロの脅威が覆っている。

 

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イスラム、宗教対立というステロタイプな反応をしているうちに、Homegrownテロリズムの増殖がとまらない。

 

イスラムテロリズムをもたらすのではない。社会的不正の放置が引き起こした義憤がそれに対抗するロジックを求めるのである。キリスト教に由来する近代、リベラルな近代が、放置した現代の社会的不正をイスラムという率直な論理だけが、怒れる精神の琴線に触れたのだ。

 

ウィルダースの表層的な論理の執拗性、永続性が、来週の総選挙で何を引き起こし、それがフランス、ドイツ、イタリアにどのように波及していくのかはわからない。

 

しかし宗教的対立などという現実の否認からは何も生まれないのだろう。この記事からの10数年という月日の経過がその深刻さを物語っているような気がする。

 

オランダの寛容の美徳の危機の最終回。

 

 

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オランダの寛容の美徳の危機の最終回。

 By Roger Cohen International Herald Tribune 

 

http://www.nytimes.com/2005/11/07/world/europe/dutch-virtue-of-tolerance-under-strain.html

 

(以下意訳)

 

イスラムに対する挑戦

 

VerdonkのVVD党から政治家になったソマリア生まれのAyaan Hirsi Aliは、以前はムスリムだった。

 

911の後、既に疎遠に感じていた宗教を棄て、いまや、彼女はもっとも非妥協的なイスラムの批判者になった。そんな彼女に対して、イスラムの狂信主義者たちは殺害を宣告している。 

 

武器をもった自前のセキュリティチームに囲まれて、Hirsi Aliはオランダの首都であるハーグ(形式上の首都はアムステルダム、実質的首都機能はハーグ)にある目立たないホテルの中の秘密の住居から会見の場所にやってきた。 

 

耳には真珠のイヤリング、首には真珠のネックレスを身に纏っている。近代的な装いだが、フェルメール(Vermeer)の絵の中から抜け出たようだ。

 

「恐怖の中に生きている。時折、その感覚が私を打つ。」と彼女は言った。 

 

Hirsi Liは35歳でヴァン・ゴッホの11分の映画「服従」の脚本を書いた。 

 

この映画は、若いムスリム女性の性的な屈辱がテーマである。若いムスリムの女性と強姦魔の叔父、冷酷な夫、叱責する恋人。そしてそれに伴う宗教上の疑念。

 

今は上映を取りやめているこの映画が最初に上映されたのは2004年の8月だった。3ヵ月後、監督ぼヴァン・ゴッホは殺された。 

 

5ページにわたる「Hirsi Ali」への公開レターは死体に突き刺されたナイフをあしらっており、ヴァン・ゴッホと同じ目にあわせるという脅迫を意味していた。 

 

イスラムの性的道徳に挑戦し、少女たちが学校を終え、自分で自分のパートナーを決めることができる道を開くためにこの映画が製作されなければならなかったということに一切の疑念はない。ムスリムの移民がうまくいくためにもっとも重要な解放だと信じている。

 

子供の頃に、サウジアラビアで生活したこともある、Hirsi Aliは、個人の自由についても多くを語った。オランダは人間が作った社会であり、市民が大幅な自由を享受し、同様な自由を他者にも認めるという精巧な契約が存在する社会である。 

 

この精巧な民主主義的制度の中に、それを共有しない、参加というよりは恐怖による権力関係に慣れ、配偶者を自ら選ぶというような個人の選択には不慣れな多数の人々が流入したのである。

 

「今から私が言うことはかなり議論を呼ぶだろうと思う。私は田舎からの移民のほとんどはオランダのような国の文明段階とはかけはなれたレベルで生活をしてきている。それがこんな怖ろしい事態を生み出すことになった。」とHirsi Aliは言う。 

 

彼女はアムステルダムのRijks美術館にあるDe Witt兄弟の私刑についての17世紀の有名な絵画のことを言っている。。この絵の中で、兄弟の死体は2004年のヴァン・ゴッホ同様、ナイフで切り裂かれているのである。 

 

「信じられる?」とHirsi Aliは目を大きく見開いていった。 

 

「これは今の時代に生きている私達のやり方じゃない。そして、人々が公開にリンチを行い、個人の自由など考えたこともないような国から、大量の移民が殺到しているのである。オランダ、ドイツ、フランスは皆、大きな間違いをした。そのうちなんとかなる、、移民の子供たちも学校へ行けばリベラルで世俗的な物の見方を身につけるはず。ところがその代わりに現れたのがBouyeriだった。」 

 

Hirsi Aliは1997年にオランダ市民になった。彼女は地元の役場へ行って、300ドル払って、パスポートを与えられた。誰も、何故彼女がオランダ人になりたいのかを聞きもしなかった。「ただ旅行用の書類を買っただけよ。」と彼女は言う。 

 

何十年にもわたって、何十万人という移民が同じことを行ってきた。

 

オランダ人となることに関する契約はが公に議論されることはなかった。そんな、ある日、他の欧州諸国同様、オランダ人は、自分の社会に、見知らぬ人々がいるのに気づいたのだ。

 

「欧州全土がこの現実を否認しようとしている。こういうテロは、そのうちなくなる。残念ながら、絶対に、これはなくならない。聖なる書物が異教徒は殲滅せよと言っているからだ。」

 

彼女は続ける。

 

オサマ・ビン・ラディンムスリムピューリタンである。彼はコーランにこだわりつづける。イスラムは平和の宗教などではなく、他のムスリムとの間にだけ、平和が存在するのだ。」

 

「我々は、イスラムが極めて暴力的な宗教であることを認識しなければならない。ブッシュのようにこの暴力性はイスラム本来の姿ではないというようなふりをすべきではない。

 

ムスリムがこの国でムスリムでありつづけることを認めるならば、男女同権のような反人権的発言をやめるように促すべきだ。イスラム宗教改革を求めなければならないのである。」

 

アムステルダム市長のCohenのスタッフである市会議員のAboutalebは異例ではあるがムスリムユダヤ人によって構成されるチームを形成した。 

 

彼はHirsi Ali、ウィルダース、Verdonkやオランダの中道右派政府は間違っていると考えている。

 

彼自身は社会民主主義者で、オランダの移民に対する態度の硬化を懸念している。

 

「オランダの移民政策は様々なグループを相互対立に追い込んでいく。必要なのは「大きな我々」のコミュニティであり、100万人のムスリムがそのメンバーだと感じられる場所なのだ。」 

 

Aboutalebからするとヨーロッパの文化に比べれば、イスラム自体に問題はない。彼は、テレビでイスラムという宗教を説明するのに多くの時間を使っている。

 

最大の問題は欧州がイスラムを回避することである。

 

「何故、Cohenはユダヤであるということを疑わないのか」 

 

この運動を前進させるために、Aboutalebは過激派との戦いにイマーム(導師)たちを巻き込みたいと考えている。「宗教上の対立などはない」というのがと彼の主張だ。

 

普通のムスリムと背教的なムスリムの意見が一致する点がある。

 

オランダの教育システムに問題があるということだ。

 

とりわけオランダ人が頻繁にホワイトスクールとブラックスクールを口にすることはショッキングである。移民たちは、黒い髪の毛ということで、ブラックに分類されることになる。

 

この区別は、憲法の23条に規定された学校システムの帰結だ。 

 

この条項は両親がキリスト教あるいはその他の信仰に基づく学校に対して、政府からの補助金を得る権利を付与している。

 

さらに学校はその学校の信条を受け入れない生徒を拒否する権利がある。

 

「オランダの憲法がこの分離された教育システムを可能にした。これは驚愕すべき事態だ。」とAboutalebは言う。「キリスト民主党にとって憲法23条は聖なる法令なのだ。」 現在の政権はDCAとVVDの連立政権である。

 

変化のための努力

 

今、この連立政権は他の分野での改革努力に力を注いでいる。

 

欧州の他の地域と同様、移民は主として3つの合法的経路を取る。

亡命(Asylum),家族再会、結婚である。 

 

亡命手続きは、社会保護を受領するために何年も宙ぶらりんの状況に外国人を置いてきたが、最近、手続が厳格化し、何千もの申請が拒絶されはじめている。

 

既にオランダに住む家族のところに移住するものも、結婚するものも、そのうちオランダ語や母国の社会についてのテストを受けるようになる。親戚や配偶者を受け入れる側の年齢や年収への規制も高まりはじめている。

 

いわゆるInburgeringテスト、良き市民たる試験を通過することが義務となるのである。新しい儀式、最後には国歌斉唱で終わるものが、帰化のためには不可欠になるのである。このあたりはアメリカ的な手続きに近づいてきている。 

 

「ヨーロッパはアメリカの経験に依拠すべきであり、いまや移民の存在が国家構成の不可欠な要素となっていることを受け入れなければならない。」とワシントンの移民政策研究所の所長のDemetrios Papademetriouは語る。 

 

米国において、9人に1人は海外で生まれている。欧州ではおそらく10人に1人ぐらいの比率だろう。 

 

欧州においては必要なのは、移民を問題ではなく、好機ととらえるような国民意識の抜本的変更なのである。

 

そのためには、欧州は、これまで、すべてのメンバーに対して提供してきた完全な福祉を修正しなければならない。

 

911後の危険な世界、アイデンティティの動揺、過剰福祉の財政負担などによって、欧州における移民問題の再考が余儀なくされている。

 

オランダ等の国々で今後どんな方向に向かうのかはまだわからない。

 

Kes Van Twistは最近オランダ映画賞の会長になり、若いオランダ系トルコ人やモロッコ人監督によるいくつかの映画の中に希望を感じている。

 

祖国と、移民してきた国の両方の世界を受け入れるということは、カトリックプロテスタントで生じた和解同様、イスラムにおいても可能なのだと。

 

しかし現実の世界を覆う緊張は高い。

 

Hndelsbladの編集長のJensmaは優秀なオランダ系モロッコ人コラムニストのHasna El Maroudi(21歳)が、最近モロッコのRifマウンテンからやってきたベルベル人を、遅れた国のヤギの売買人と喩えたために、殺害脅迫を受け、コラムの発表を取りやめたことがあったと語る。

 

「これが、脅迫がもたらす、典型的な恐るべき帰結なのである。」

 

元首相のWim Kokが自転車で仕事にやってくることができた時代は、はるか昔のことになってしまった。Kokは3年前に、ボスニア・ヘルツェゴビナのSrebrenicaのムスリムを保護するためにオランダの国連軍を派遣するのに失敗して辞任した。

 

こ戦時中のユダヤ人、イスラム系移民、ボスニアで虐殺されたムスリムに対する政策の失敗という歴史で今のオランダの混乱を説明することができるだろうか。

 

答えはおそらくイエスである。

 

黄金時代の画家たちが理解していたように、この国では物事の本質と外見は一致しないのだ。

 

今日、鉄道の駅には、大きなオレンジと黒のポスターが貼られている。オランダの主要なユダヤ人組織によって掲載されたポスターには、「1940年から45年にかけて、ユダヤ人人口のほとんどが姿を消した。今度は誰の番だろう。憎悪を呼び戻してはならない。」と書かれている。もう一枚には、「ここからアウシュビッツ行きの列車が出発した。いつになった世界は賢くなるのだろう。」 

 

ハーグ駅のこの陰鬱な装飾を困惑しながら見つめていた60代の女性が近づいてきた。急ぎ足で目的地に向かいながら、彼女は「気を悪くしないでください。物事がよくなるためにやっているのですから」と私に言った。(以上) 

 

 

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