反ユダヤ的過去という負債感(オランダ的寛容の美徳 その2)
2017年3月11日(土) 12℃ 晴れ時々曇り
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どの時代を考える上でも、その時点での為替や金利の状況はどうだったろうかと考えてしまう。長い間の習慣転じての癖となってしまった。今、その習慣がさほど必要じゃないにもかかわらずである。韓国の朴大統領が昨日憲法裁判所から罷免の命令を受けた。民主化後初のことだという。朴派と反朴派の対立が死者まで生み出したらしい。多くのことを共有する隣国ながら、この烈しさは、私たちの眼には驚きに写る。
昨日から読み直しているオランダについての記事だが、2005年10月17日付の記事だ。
当時の為替レートはちなみに。
ドルは113.99円 (現在114.692円)
ユーロは138.03円 (現在122.521円)
ポンドは202円 (現在139.587円)
目立つのはポンドの下落。Brexit畏るべしというところだった。それ以外は、10年くらいでは目覚ましい変化があるわけでもないのかもしれない。
オランダの寛容という美徳の危機の第2回目。
ナチズムに対する迎合(コラボ)の問題、反ユダヤ主義の過去が、オランダ、そして欧州の社会心理の中に、深い歪みを与えている。負い目が、憎悪に転じるメカニズムはそれほどわかりにくくはない。
欧州で、もっともリベラルで、奔放な社会に、古風なムスリム移民が流入した。それを国民の中の負債感が容認した。しかし負債感に基づく、許容にはおのずと限度があるのだろう。
オランダ的寛容の美徳の危機
By Roger Cohen International Herald Tribune
http://www.nytimes.com/2005/11/07/world/europe/dutch-virtue-of-tolerance-under-strain.html
(以下意訳)
二重のアイデンティティ
アムステルダムの西の端にあるオスドープはディッシュ都市の一つだ。食品店はトルコ人の経営で、パン屋は粘り気のあるアラブのケーキで一杯である。
地元のスポーツバーのフューチャーカフェである夜、モロッコとチュニジアのワールドカップ予選が巨大テレビ画面で放映されていた。
バーテンダーのHans Kettingはテレビをオランダ対チェコの試合に変えようとして、モロッコ系の客から囂々たる批判を浴びた。
26歳の電気工、Annas Hamidは叫んでいるうちの一人だった。
ミルク工場で働く、父親に連れられて子供の頃にオランダにやってきた彼は、自分のことをオランダ系モロッコ人と呼ぶ。
「一つのアイデンティティを使う時にはそれを使い、別のアイデンティティがいる場合には、それを使う。身分証明など紙切れにすぎない。」
しかしそれでいいのだろうか。
暖かく受け入れてくれるわけでも、保護的ともいえない国にいる、Hamidのような移民2世の矛盾するアイデンティティが過激化の一つの淵源になっている。
Bouyeriからすると、ロンドンの自爆テロリストはその証明だったはずだ。
この事実を一般化すべきではないと、Hamidは主張する。
「中には狂人もいる。しかしすべてのムスリムがそうではない。」
小さな屈辱感が毎日蓄積されていく。
バスの運転手が彼の眼の前でドアを閉める。
モロッコ人は人殺しだという囁きが耳に入る。
「我々をもっと同化させようとしないのは政府の過ちだ。我々は20年以上もこの国に住んでいるんだ。」
彼が過ちとよぶ政府の作為、不作為は実は、かなり意図的なものだった。
住む場所と補助金を与え、彼らの文化が広がるにまかせよう。
これがオランダ人の移民に対するアプローチだった。
このアプローチが採用された背景には、この国独自の歴史がある。
ナチによる占領当初、オランダには14万人のユダヤ人がいたが、そのうち、75%にあたる10万2000人が殺害された。
これは他の西欧民主主義国家の中で最大の比率だった。
この統計数字の意味は1960年代にいたるまで十分に咀嚼されなかった。
1960年代になって、オランダ人は、国民全員がアンネ・フランクを匿ったわけではないことに気づいた。 (最後には彼女も結局裏切られることになった。)
いったんこの事実が明らかになると、オランダ人の恥の意識は長く続くことになった。
移民を批判するのがタブーになったのである。
人種差別主義(Racism)はガス処刑室につながるからだった。移民に好意的な態度をとることは、他の欧州諸国と同様、一種の償い(Atonement)として考えられるようになった。
彼の母は1944年に隠れ家で生まれた。
オランダ人は偽善者だとKettingは言う。
「オランダ人を20人集めてみればいい。すぐに彼らは愚かなムスリムをどうやって追い出すかの相談をしはじめるだろう。でも彼らはそれを直接的には言わなかった。その本音を代弁したのがフォルタインだった。」
彼の父のJohannesは軍隊にいて、戦後インドネシアに駐在していた。オランダ人は1949年に終わった血なまぐさい闘争のあとではじめて植民地を放棄した。
インドネシアにおける闘争とその喪失について、オランダ人は去年の8月でさえまだ、痛恨の思いで語るのだ。
「私の父親は(こういった無分別さに)適応する困難を感じていた。この国が短期間にあまりにも豹変するからだ。」
これは欧州一般に言えることでもある。
帝国の喪失、影響力の減退、欧州連合に対する国家主権の放棄。これらの要素が、歴史上はじめて移民の国となるという経験とあいまって、国民の精神に深刻な変化を及ぼしている。
地元の一流紙であるHandesblad Dailyの編集長Folkert Jesmaは言う。
「奇妙なことが生じている。我々はいま、移民たちに我々のアイデンティティを教え込もうとしている。その過程で、オランダのアイデンティティと言っても、一体自分たちに何が残っているのかがよくわからないことが明らかになった。」
たしかに、フューチャーカフェでは、オランダのアイデンティティは不透明になってしまっている。
そこら中、大麻の煙だらけだ。スリナムからの移民はマリファナ煙草を丸めている。彼は毎月、さまざまな補助金で800から967ドルを得て、一時間8ドルのパートタイムの仕事をしている。
「なんて国だろう。彼らはヘロイン中毒にドラッグを与えている。なんでも合法化しすぎなのだ。ドラッグは非合法であるべきだ。」とHamidは声高に語る。
この瞬間、オランダの問題の根源が明らになったような気がした。
売春宿、ドラッグ、そしてもっとあけすけなオランダ風テレビのリアリティショーなどで溢れかえった、欧州のもっともリベラルな文化の中に辺境の村出身のイスラム系の貧しい移民が流入しているのである。
何かがおかしなことが起こる可能性はリアルに存在する。特に、好景気が去ったあとが危険だ。
しかしHamidはこの国に留まりたいという。ここが自分の家だからである。彼はもうすぐオランダで育ったモロッコ人と結婚する。「オランダ人のガールフレンドがいたこともある。しかしぼくにとっては、妻はムスリムでなくてはならない。これは障壁といえるかもしれない。」(続く)