21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

マルコム・グラッドウェルがクリス・アンダーソンのFREEの書評を書いている

ロングテールの著者クリス・アンダーソンが、Freeという新しい本を出版したというニュースがツイッターや、そこここで語られ始めた。洋書を置いている本屋に行ってみようかなと思った。

最近、洋書をすんなりと、アマゾンで買わなくなり、必ず、本屋で自分の手にとって眺めて、読み終わる確率を、一度考えてから買うことにしている。読書速度が落ちてきたこともあるが、英文をPCで大量に読み続けるようになってから、unwiredな状況では、できるだけ、一番大好きな端末である書物で、もっとも得意で楽な日本語で書かれたコンテンツを読みたいと思うようになったからだ。PCでも英文を読み、それ以外でも、英文を読んでいると、なんとなく、疲労感というか、消耗感が激しくなるような気がする。

そんなこともあって、書物を手にとって、その活字が、すんなりと身体の中に入ってくる本しか、洋書の場合は、買わないようにしているのだ。(置場という物理的な問題も心のどこかを占めている。)

アマゾンで洋書を買う人が増えたせいなのだろうと思うが、東京の洋書を置いている書店の品揃えもかなり危うくなってきている。そんな中で、最近、気に入っているのは、東京駅の近くのオアゾの4階にある、丸善丸の内本店の洋書部だ。

たまに訪れると、平積みの棚に、買いたくなる本が置いてあることが多い。神保町の東京書店の平積みの棚のところとちょっと似た感じだ。

週末、ふらりと、丸善に行って見たが、まだFreeは入荷されていなかった。相変わらず、金融危機ものは多いのだが、Freeで取り上げている現象に比べれば、今回の金融危機など、この世の終わりでもなんでもなく、日本人が少しばかり前に体験し、米国人が忘却の彼方に追いやっていた、大きなバブルの崩壊にすぎない。だから、つまらなくて、手に取る気もしない。80年代、90年代には、ウォールストリートものばかり読んでいた、自分にしてそうなのだ。

仕方がないので、ソフトウェアのセクションや、文庫のセクションを冷やかすだけで、帰ることにした。

デジタル時代には、すべてのコンテンツは無料になってしまう。だから、既存プレイヤーも四の五の恨み節をいっている暇があるならば、さっさと、その現実を受け入れて、生き延びる術を見つけるべきだというような内容のようだ。他人の要約を真に受けて、ああだこうだ言っても仕方がないので、入荷を待つことにしようかと、極めて非デジタル的な判断をした。

しかし、気持だけはデジタルに加速しているので、グーグルで、ちょっと検索していたら、大好きなニューヨーカーのサイトに、Malcolm Gladwellが、「情報の販売コスト」(Priced to sell)という書評が載っていた。クリス・アンダーソンの近著での「デジタルの世界では、すべての情報は無料になろうとするので、それに逆らっても仕方がない」という主張への反論を試みている。Gladwellはニューヨーカーの常連寄稿者で、最近はOutlierが最近大人気の勝間さんの翻訳で出版されている。

入荷前に、批判のレビューを紹介するものどうかと思ったのだが、映画のネタバレよりはましかということで、ちょっと拾い読みしてみた。

http://www.newyorker.com/arts/critics/books/2009/07/06/090706crbo_books_gladwell?printable=true

5月のワシントンでの公聴会で、ダラスモーニングニュースという地方紙の編集長が、アマゾンとの取引概要を説明した。具体的には、アマゾンの新しい電子書籍端末であるキンドルへの、自社の記事のライセンスをめぐる交渉で、いかに彼が憤慨したかが縷々説明されたという。問題はそれぞれの取り分だった。アマゾンは購読料の7割と、他の携帯端末への再出版権を要求したのだ。

アマゾンはコンテンツを時間と金をかけて作り出す新聞社の貢献をまったく評価していないと、このジャーナリストは憤るのである。

草の根ジャーナリムが拡大した、ハフィントンポストのアリアンナ・ハフィントンも、同じ公聴会の証人だったが、もはや四面楚歌といえる新聞産業にとっては、キンドルの提案も悪くないはずだと主張している。ここに新旧ジャーナリズムの見解の相違が明らかになった。

ダラスモーニングニュースの編集長は、多分、クリス・アンダーソンの「フリー:過激な価格の未来」という新著を読んでいないのだろう。Wiredの編集長で、2006年にベストセラー「ロングテール」を書いた、アンダーソンは、新著で、Stewart Brandの「information wants to be free(情報はタダになりたがる)」という有名な発言をさらに拡大し、精緻化した。これを読んでいたら、彼も、アマゾンの提案にこれほど驚くことはなかったかもしれない。

アンダーソンの考え方はというと、デジタル時代には、アイディアからできたあらゆる商品、サービスの価格は容赦のない値下げ圧力にさらされ続けるというものである。しかも、これは一過性のトレンドではなく、デジタル時代の鉄則になると考えているのだ。法律などで、このフリーに向かう現象を回避しようといくら努力しても、最後には、この経済的重力が支配する。

著作権侵害に不満の声をあげるミュージシャンに対しても、著者は遠慮しない。不正利用だろうがなんだろうが、新しいメディア環境で高まった認知度の高まりを、ツアーやマーチャンダイズを通じて利用する方に、そろそろ頭を切り替えた方がいいというのが彼のアドバイスだ。

ダラスの地方紙にも、同じことを言うのだろう。新聞記事の価値は、彼らが望むようなレベルには絶対に戻らない。だからその環境を前提に新しいビジネスを創造するしかないじゃないか。大量失業のあとに、プロのジャーナリストの新しい役割が生まれるはずだと予測している。どうも、万人がジャーナリストというような現代において、彼らのプロのジャーナリストとしての経験が、そういうアマチュアたちに対する編集者、コーチのような新しい役割を生み出すはずだ。金銭的対価以外のために、書きたいと思う人を束ねて、指導することで、生計をたてるという道も開けるはずだと彼は主張している。

アンダーソンは簡潔で巧みな筆致で、明日はどっちかが見えなくなっている、既存のコンテンツプロバイダーたちに絶妙のタイミングで、新しい見識を提示している。

ただ、よく考えると、「他の人々に書かせることでお金が稼げるのならば、なぜ書くことでお金が稼げないのか」などと半畳を入れたくもなってくる。

金銭的対価以外のために書く人が大多数になるというのは、ニューヨークタイムスもボランティア記者で経営しろということなんだろうか。

だいたい、デジタル時代の鉄則とアンダーソンは言うが、なぜそれが法則だといえるのだろうか。フリー(無料)というのは一つの価格にすぎない。価格は市場の個別の参加者よって設定され、特定時点における需要と供給の総計値に従って決定される。

「生命が繁殖し、水が高いところから低いところへ流れるように、情報は無料になりたがる」とアンダーソンは言うが、情報が、何かをしたいなんて思うだろうか。

アマゾンが新聞記事をタダ同然にしたいと考えるのは、それが鉄則だからではなく、彼らのお金の儲け方だからなのだ。それを鉄則など奉る必要などない。

アンダーソンは、技術的トレンドから、自分の議論を開始する。電子的活動の基本要素である、ストレージ、処理、帯域のコストは下落しつづけ、今や0に近づいたというのが、彼の現状認識である。

トランジスタ1個の価格の以下の推移がすべてを物語っている。

1961年 10ドル
1963年 5ドル
1968年 1ドル
今日 0.000055セント

次に、彼は、価格が0になると想像を絶することが起こると議論を展開する。

アンダーソンは、MITの行動経済学者のDan Ariely(Predictably Irrationalの著者)が行った実験を使ってこのことを説明している。実験では、対象グループに2種類のチョコレートを選ばせた。価格が1セントのハーシーズのキスチョコか15セントのLindtのTrufflesを選ばせるという実験だ。対象の4分の3が、Truffleを選んだ。

次に両方のチョコレートを1セントずつ値下げして実験をした。キスチョコはタダになった。何が起こっただろう。

選択は逆転し、69%がキスチョコを選んだ。二つのチョコの価格差は全く同じなのだが、無料という魔法の言葉には、消費者を殺到させる力があるのだ。

アマゾンが25ドルを超える注文の配送コストをタダにしたときにも同じことが起こった。1冊目が25ドル以下のときに、2冊目の本を買うインセンティブを与えるだろうという考えに基づいてのことだった。(20セント相当の水準にこのポイントを間違って設定したフランスではこの試みはうまくいかなかった。)

安いことと、無料ということには大きな違いがあるのだ。無料配布となった瞬間に市場を爆発する。でも1セントでも代金を支払わせると、まったく別の話になってしまう。つまり、0とその他の価格は別の市場を形成しているというのが筆者の主張である。

グーグルが検索とEメールを無料で使わせて、広告でお金をたんまりと稼いでいるように、フリーという世界には巨大な事業機会が存在するとアンダーソンは主張する。だいたい、デジタル技術のコスト下落で、コンテンツの製作コストが0に近づいているんだから、できない話じゃないだろう。

この考えの前提には、希少性(scarcity)の世界から豊富さ(affluence)の世界への移行という現状認識がある。何かをフリーで与えるというのは、多くの浪費が生じるのだが、製作コストが0に近い、デジタルの世界では浪費的でも問題はないと話は続いていく。

既存のマスメディアのコンテンツのクオリティを精緻にチェックする、メカニズムはこういう希少性の時代の産物だ。紙面割り、放送時間の割当などに頭を悩ませなければならなかったのは、そういう資源が希少だったからだ。

デジタル時代の豊富さという環境の中では、こんな必要はない。グーグルが所有する、ユーチューブを見ればいい。

ユーチューブは誰にでも、そのウェブサイトに無料でビデオを投稿させている。そして投稿されるビデオの質についての判断する必要もない。「投稿ビデオが希少なスペースを占めるだけの価値があるかどうかなどもはや誰も判断しないのだ。なぜならスペースがもはや希少ではないからだ。」と彼は書く。

流通コストも、今や、丸めて考えればタダ同然だ。一人のユーザーに1時間のビデオをストリーミングするコストは約25セントだ。次の年には、これは15セントになり、さらに翌年は10セント以下になるだろうと筆者は考える。

ユーチューブの創業者はこういう想定に基づいて、サービスの無料提供を決定したのだ。結果は、テレビ業界の専門家たちの大方の予想に反して同業界に無視できない混乱を引き起こした。しかしこれが豊富さという環境が必要とし、要求することなのだ。

アンダーソンの議論を整理してみよう。
① 技術的論点 デジタルインフラは実質的にタダである。
② 心理的論点 消費者はタダが大好きである。
③ 手続的論点 タダのものは、判断をする必要がない。
④ ビジネス的論点 技術的タダと心理的タダが作った市場でも大儲けが可能だ。

ただアンダーソンの主張の中には唯一問題があると、Gladwellは論じる。それは、デジタル時代のビジネスモデルの典型と筆者が考えている、ユーチューブがいまのところ、グーグルに対してまったく利益貢献していないという事実だ。

アンダーソンの主張する、フリーという鉄則の故に、こういった結果が生じているのだ。

消費者は、無料ということに多いに反応した。結果、ユーチューブ上で今年、年間750億件のビデオが提供された。

フリーという現象の、技術面での魔法は、個々のビデオを運用するコストが丸めると0に近づくということなのだが、丸めて無料に近いといっても、それに750億件という凄まじい件数をかけると、やはり巨大な数字になってしまうのだ。

金融機関のクレディスイスが発表した最近のレポートによると、ユーチューブの2009年の帯域コストは3億6000万ドルだ。ユーチューブの場合には、技術面でのフリーという現象と心理面でのフリーという現象が、企業業績に対してプラスとはいえない動きをしているのだ。

どうやったらユーチューブは収入を生み出すことができるのか。ビデオと一緒に広告販売を行うという手段もあるだろう。問題は、心理面でのフリーが魅力を感じるビデオ(海賊版、猫のビデオ、他のユーザー作成コンテンツ)は広告主が、広告を載せたいと感じるような代物ではないという現実だ。広告を販売するためには、ユーチューブはテレビ番組や映画のような、プロが作ったコンテンツの権利を買わなければならないのだ。

クレディスイスのレポートによると、2009年の外部コンテンツに対する支払ライセンス料は約2億6000万ドルだ。

アンダーソンの3番目の手続論点という観点からすると、ユーチューブは、無料の場合、審美的判断の必要がないという原則を証明する最適の例だ。クズでもなんでも、見る人が決めるという考えだ。しかし、広告という形で、お金を儲けるためには、ユーチューブはクズじゃないプログラムにお金を払わなければならなくなると、Gladwellは主張する。

クレディスイスによると、今年のユーチューブの損失は5億ドル近いという。筆者に意に反して、ユーチューブフリーな技術が、最終的にタダとはいかないことの絶好の例になっているというのが彼の主張である。

電力コストも昔は、いつか無料になると予測された時代があった。しかし、その時代の人々が、見過ごしていたのが、電力コストのほとんどの部分を占めている、送電線や発電所などのインフラコストだったという。

これは技術的なユートピア主義者たちが一様におちいる間違いだとGladwellは主張する。

Wiredのもう一人のビジョナリーのKevin Kellyが1998年に同じような不合理な推論をオ行った。

「多くの製品が、モノからではなくアイディアから作られるようになると、その価格の下落速度は加速する。」とKellyは書いている。「しかもこれはデジタル製品に限ったことではない。」と主張している。

Kellyは、その例として、製薬産業を取り上げた。遺伝子工学によって、新薬開発がデジタル世界と同じ学習曲線に従い価格が下落する中で効能が増加すると主張している。

しかし、過去の電力コスト無料予測同様に、彼は、発電所や送電線の必要性のことを忘れていた。製薬プロセスのかなりの部分は、研究所で起こるわけではない。本当の製薬プロセスは、研究所を出たところから始まるのであり、臨床検査のように、何年もの時間と数億ドルの資金がかかるプロセスが、制約会社を待ち構えているのだ。

製薬の世界においては、さらに重要なことに、新しい技術に対する企業戦略がシリコンバレーとは全く異なっているのだ。製薬会社は、より小さな市場をターゲットにしようとする傾向がある。すなわち特定の患者や、特定の疾病用の薬品を開発しようとするのだ。市場規模が小さいということは、すなわち高い薬品価格を意味する。バイオテクノロジー企業の資産も知的所有権という名前の情報である。ただ、この情報は無料になろうとしていない。逆に、高く、高くなろうとしている。

情報の世界でも、アンダーソンの言うような鉄則に従った動きをしない情報も多い。

ニューヨークタイムスはウェブサイトでコンテンツを無料で提供している。しかしウォールストリートジャーナルは、オンライン購読のために支払うのを厭わない100万人以上の購読者を見つけた。

地上波テレビは実は世界で最初にこのフリーという現象から収益を生み出すビジネスモデルを発明したのだがいまや苦闘している。しかし専門コンテンツに高い月額料金を課金するケーブル放送はうまくやっているようだ。アップルの、iPhoneのダウンロード売上(アイディア)からの利益がiPhone端末(モノ)の売上からの利益を追い抜く日も遠くないような気がする。

アップルはいつか、ダウンロード事業を拡大するために、iPhone端末をタダにするかもしれない。その逆に、iPhoneの売上を拡大するために、ダウンロードをタダにするかもしれない。あるいは今のまま両方とも有料のままかもしれない。これは誰にもわからないことだ。

唯一デジタル時代の鉄則といえるのは、商品が作られ販売される売られるやり方を刻々と変化し、それには鉄則など存在しないということである。これは1冊の本を書くまでもなく自明なことのように思われる。(以上)

テクノロジーユートピア論には、必ず、こういった現実論の応酬が行われる。なんとなく、90年代後半から2000年前半にかけての通信バブルでのギルダーの論調を、Gladwellが敷衍するアンダーソンの主張の中に感じて、懐かしくなった。

この種の論争は、やはり反復するのだ。

ユーチューブのくだりを読んでると、最近、西村博之さんのロジックの影響もあって、現実的になっているぼくは、Gladwellに乗っかりがちだ。批判する側が敷衍する対象像に乗っかって、対象を批判的に片付ける愚だけは冒さないようにしよう。簡単に片付けるにはもったいない重要な領域だと思う。やっぱり、Freeをアマゾンで注文しようかな。