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金剛寺坂を歩いてみると(永井荷風「伝通院」)

春日通の竹早高校の向かい側の細道を下った。このあたりでは有名な安藤坂に概ね平行した道である。

 「金剛寺坂 文京区」の画像検索結果

散策の時に、飯田橋の方へ向かうときに抜ける細い道で、金剛寺坂という名で呼ばれている。

 

坂を下り始めると、唐突に「金剛寺坂の笛熊」という言葉が頭に浮かんだ。

 

このあたりで生まれた、散策の達人の永井荷風の「伝通院」という小品の中の一節だ。

 

永井荷風 伝通院



金剛寺坂の笛熊さんというのは、女髪結の亭主で大工の本職をうっちゃって、馬鹿囃子の笛ばかり吹いている男であった。(伝通院)

 

 

荷風が幼年期にこの界隈で出会った、少し変わった、隣人である。

 

この小品は、水道端やら、春日通やらをほっつき歩くことが多い私のような者には、なんともたまらない文章に満ちている。

 

明治43年というから1910年、107年前の作品である。

 

書いた当時、31歳だった荷風が、幼年時代を過ごした小石川界隈のことを懐かしんでいる。

 

彼はこの金剛寺坂近くで生まれ、十二、三の頃までこの丘陵地帯に暮らした。散策してみるとよくわかるのだが、後楽園から大塚、池袋に抜けていく、春日通というのは、いわゆる馬の背のような地形で、東西南北、富坂、安藤坂、播磨坂など、どこから登っても、足や心臓が達者じゃない向きには、なかなか手強い傾斜なのである。小石川は坂の街なのだ。

 

「伝通院」に戻ると、20歳前というから官立高等商業学校(今の一橋大学)に入学した頃か、2年程度で中退したころか、荷風は、ことあるごとに、自らの幼年時代をいとおしむようにこのあたりを散策した。

 

清語を勉強していた、荷風らしく、小石川の高台を歩きながら、「何とはなく、いわば興亡常なき志那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持」を覚えたという。

 

志那の歴史の興亡とは、大袈裟なと思うのだが、この小品を読み、今を歩く私には案外、なるほど、と思わされるところがあった。

 

寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動かしがたい或る特色を生ぜしめる。巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生まれた小石川をば(少なくとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。

 

伝通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷と相対して富坂をひかえ北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。(伝通院)

 

伝通院は、数年前に、改修工事が施されて、きれいになった。しかし、改修の時に、長い歳月の埃と一緒に、時の陰翳も、洗い流されてしまったようで、今では、増上寺、寛永寺と並び称せられた霊性は残念ながら感じることはできない。閑静な住宅街であることが至上の価値になっているということ自体、決して住民にとっては悪いことではないのだろうが。

 

何事も、坂道を登り切って、しばらく下ったあたりが、穏やかで、幸福なのかもしれないと、土地の歴史に思ってしまう。

 

こんな場所を散策していると、早逝した伊藤計劃が傑作『虐殺器官』の中で、描いたような近未来のガジェットが欲しくなってしまう。



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人気の多い通りに出ると、視界が唐突に騒がしくなった。存在しない看板で副現実(オルタナ)が溢れかえったのだ。

 

観光都市であるプラハは、とにかくオルタナが充実している。店という店に、街路という街路に、これでもかというくらいの情報が貼りつけられている。(中略)

 

 計画を立てなければならない。

 

 ぼくはタッチボードを探した。オルタナを充実させているプラハの歩道は、そこらじゅうボードだらけだ。キーボードのイラストが書かれた合成樹脂の板が、いたるところで観光客に顔を向けている。ぼくはボードの前に立って、それを三秒間見つめると、コンタクトが絵をインタフェースとして認識した。キーボードを叩くようにイラストに描かれたキーに触れていく、キーを「押した」手ごたえのような贅沢を求めない限り、本物のキーボードは必要ない。赤い線で抽象化されたキーが描かれていた板でじゅうぶんだ。

 

 視線検出で文字を見つめるだけで入力可能なデバイスも一時期もてはやされたが、一文字一文字視線を移動させるより、指でキーを押したほうが断然スピードが速かったために、視線入力はあっという間に廃れてしまった。

 

 プラハの観光情報をカットアウトするフィルタを起動させて、USAにアクセスする。

虐殺器官

 

小石川界隈をこのオルタナというウェアラブルコンタクトレンズを装着して歩き回ったならば、そこいら中に、歴史的記述が現れることだろう。永井荷風の生家の画像、その生涯、家族写真、そして、音声で流れる「伝通院」の一節等々。

 

そして、一つの場所に、貯め込まれているのは一つの時代に限らない。場所ごとに、時の地層が、散策者の身体を年輪のように取り巻くのである。

 

金剛寺坂の笛熊さんという、馬鹿囃子の笛ばかり吹いており男や、踊りもすれば落語もする按摩の休斎、背中一面に般若の文身(ほりもの)をしている若い大工の職人やら、幼年期の荷風の目をくぎ付けにした異形の市井の人々が、時間の地層の中からぼんやりと現れて来るのが感じられた。

 

二十歳の荷風は、小石川の坂道を上りながら、さらさらと砂のように崩れながら、時の地層に同化し、失われていく、自らの記憶とその記憶の中の人々を心から悼むのである。

 

 

東京を歩くというのは、歩く土地、土地で、地層から立ち上る、異なる時代の年輪に、何重にもその身を包まれることなのだ。

 

笛熊さんの横を、赤穂藩の若侍との牛天神での束の間の逢瀬のあと、若い女が泣きながら、安藤坂を下って行くのが見える。

 

Technologyで、一瞬に情報を獲得するというよりは、無駄に、何度も、同じ場所を訪れ、時代時代の地霊とすれちがうという構えこそが、東京のような古い都市の散策にはふさわしいのかもしれないと思った。

23℃ 晴れのち曇り 112.031

 

 

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