壁を作る人、壊す人(NYT)
ニューヨークタイムスにCostica Bradatanという大学教師が、壁というものについての面白いコラムを書いている。
筆者が結局、最後に何を言いたいのかは必ずしも明らかではない。それは意図してそう書かれているのだろう。
壁を作って、壊す、繰り返しが、歴史であるというような見方は結構Refreshingだった。筆者がベルリンの壁を体験しているという
あたりの魅力なのだろう。
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/11/27/scaling-the-wall-in-the-head/?ref=opinion
壁というものがまた流行だ。
ドイツで育った自分にとっては、ベルリンの壁がどういう風に機能していたを知っているだけに、この動きは興味深い。
移民の問題は共和党にとってのもっともホットな論点になっている。
筆者はニューヨーカーの表紙の漫画を取り上げている。メイフラワー入植者の服装をした人々が砂漠
にはりめぐらされた鉄条網を必死の形相でくぐっているという風景だ。
http://www.newyorker.com/online/blogs/culture/2011/11/cover-story-christoph-niemann.html
移民問題がアメリカ人の心の中で日々大きくなっているようだ。
筆者は、壁は物理的なものだが、物理的以外の性質の方が重要だと言う。
特に政治的言説における役割は明らかだ。
壁は人々の心の問題でもある。
アメリカだけの問題ともいえない。
何にでも名前をつけるドイツ人はこういった状況のことを、Mauer im Kopf ("wall in the head")と呼んでいる。ベルリンの壁はとうに崩れたが、いまだにドイツ人は分断されているという意識から逃れてはいない。心の中の壁はまだ無傷に残っているのだ。
壁は安全のために築かれるのではない。安全であるという感覚(sense of security)を得るために築かれるのである。
壁は物理的ニーズではなく、精神的な必要性から築かれている。
壁は内側の人々を外敵から守るためではなく、自分たちを自分の不安や恐怖から守るために築かれるのである。
人は、壁の存在によって世界に秩序と規律が存在していることを感じることができるのだ。
壁が影響を与えるのはその内側だけではない。外部のものは、その内側になにか知るべきことが生まれ、その内側に入ろうという欲望を持つようになるのだ。
ルネ・ジラールに習っていえば、かくして欲望が誕生することになる。
何かを欲望するのは、他人の模倣から始まる。模倣すべき他人は何かを壁の内側に持っている。
だからこそ壁は魅力的で、常に周りから囲まれ、最後には打ち崩されるのだ。
オスマントルコはコンスタンチノープルの攻略に何十年もかけた。侵略者の執拗な情熱を、あおったのはコンスタンチノープルの立派な外壁だったに違いない。
壁が作られる理由はたくさんあるし、その目的も多様だ。しかし根本的な機能は常に同じである。
分断すること、人々や考え方が自由に移動することを禁止すること、そしてその差異を正当化することである。
壁はいったんできあがると当初の意図とは違った固有の論理を持ち始め、人々の生活をその規則によって構造化することになる。
それは人々に意味を与え、新しい方向感を与える。
ベルリンの壁を作ることで、東独政府は、西ベルリンという夢の場所を作り上げてしまった。死を賭しても行きたい場所である。
壁がない世界は退屈なはずだ。現実の壁がない世界に、壁を作り上げようとする動きが多いのはこのせいだ。
歴史というものもある意味、誰かが壁をつくり、他の人々がその壁を壊すという、終わりなき、大掛かりなゲームのようなものだ。壁を作るのがうまくなればなるほど、壊す側のスキルも上がっていく。こういったスキルの高まりを人は進歩と呼ぶ。
(以上)