21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

今年最初のスターバックス

2018年1月4日(木)9℃ 112.265¥/$

今年一杯目のドリップを飲みに出かけた、

 

行きつけで作業のしやすいスタバに行った。散髪がてらだ。

 

そろそろ仕事はじめなので、床屋ぐらいは言っておこうかと思ったのだ。

 

仕事柄、オフィスに縛られる時期と、縛られない時期がある。

 

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場所に縛られない時期には、自宅で働くといってもどこか切れ目がないという怨みがあるのと、逆に仕事をし過ぎてしまうリスクも高いので、日中、数時間スタバで作業するということが多くなる。

 

今年は、少々場所に縛られる度合いが増えそうなので、スタバへ行く回数は激減しそうだ。

 

終身雇用という神話が強力に生きていて、半ば現実だった時代(あるいは会社)ならば、ライフスタイルが変わるというのは、転勤でもしない限り起こらなかった。

 

転勤したところで、基本は同じパターンの生活には変わりはない。

 

「終身雇用的」世界から、脱出した/放逐された、人間を一番不安に陥れるのは、外部から与えられる生活のパターンというものが一切消失することである。

 

これが一種の解放に感じられる時間は極めて短く、財産がたっぷりあって悠々自適を決め込めるもの以外は、自由であることの不安にとらわれることになる。

 

朝の通勤時間、午前中、既に大半のサラリーマンがオフィスで働き始めている時間を、躊躇なく、自由に歩くことができるようになるまでに何年かかったことだろうか。

得も言われぬ不安感に始終とらわれることになるのだ。

 

www.wework.com



昔、大手テレビ局をやめてフリーになったアナウンサーが皆、同じようなことを言っていた。怖くて、怖くて仕事を詰め込んでしまい、オーバーワークになってしまう。解放されるということは或る種の精神の安定を失うことである。それで身体を壊す人間も多い。

 

終身雇用という「神話」が崩壊した時代、あるいは、それに伴うコストが以前より高く感じられるようになった時代には、フリーかそうではないかというのは、共同体の外に出る出ないという「重い」問題から、固定のオフィスで作業する必要があるかどうかという比較的「軽い」問題にシフトしてくるような気もする。

 

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十分に長い年月、終身雇用というシステムの中で生きた後に、その外で様々な仕事の仕方をしてきたが、ようやく、共同体の内外ということとは違った視点で、この作業する場所の問題を捉えられるようになってきたようだ。

 

スタバのドリップをのみながら、結局僕は何を言いたいんだろうと考えた。

 

実は、日本企業の共同体性というものは単に神話だと片づけられない重さを持っているという自分の実感を伝えたかったのかもしれない。

年賀状と華正樓の肉まん

2018年1月3日(火)9℃ 112.65¥/$

正月のプロトコルといえば、年賀状だ。しかし以前ほど社会的に活発に活動しなくなったことと、年賀状という文化が、デジタル化の中で押され気味なことの複合効果で、僕が毎年送る年賀状の数も減りつつある。

 

でも、年賀状を送り合う相手の寿命という要素が加速的に速まるなどというほどの年齢にもなっていないせいか、年賀状の枚数も緩やかに逓減するという程度になっている。どちらが先かは定かではないが、年賀状を受け取った人には、翌年、年賀状を出すという繰り返しの中で、一定の枚数が保たれてきたのである。こうやって長い年月の中で、残っている人のほとんどが、実は、実際の生活ではほとんど会うことのなくなった人々なのだということに気づいた。実生活での付き合いがない分、昔の関係が凍結されたままなので、いい意味の惰性が続いているともいえる。しかし、実は、これが本来の年賀状の役割なのかも知れない。


年末、年始の他のプロトコルといえば、お中元、お歳暮、お年賀だが、世の中のトレンドというよりは、自分のライフスタイルのなせる業もあり、極めて限られた数の送る、送られる関係しかない。でも年賀状とは違って、送ってくれたもの(概ね食べ物)が美味しかったら、自分も美味しい物を送ってあげようという気持ちになるという意味では、ただの形式、惰性に陥っているわけでもない。

 

正月の三箇日の最後の日。

 

散歩がてら、都内のデパートまで遠出して、華正樓の肉まんを買ってきた。

 肉まん・あんまん・焼売セット

 

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最近の贈答品の中で、一番人気というか、一番ビビッドな反応があった贈答品である。親しい知人からはリクエストがあったぐらいだ。「何がいい」と聞くと、即座に華正樓の肉まんという答えがあったというような意味あいで。

 

理由は、至極、わかりやすい。

 

ここの肉まんは、過去に自分が食べた中では、皮と肉のバランスが最高で、たっぷりとした食感があって、絶品なのだ。これに匹敵する食感は小洞天のシューマイぐらいだ。肉の質感や歯ざわりがどこか似ている。

 

最近、華正樓へは、贈答品を送るためだけに行っていたので、今回は、自分の家族用に買い出しに出かけたのである。

 

贈答品で心からの感謝をもらうには、相手との一定の親密さと、贈答品自体の本当のクオリティの二重のマッチングが不可欠だとは思うが、華正樓の肉まんにはやはり、それだけの価値があるというのは保証してもいい。

 

年賀状の話がしまいには華正樓の話になってしまった。


築地本願寺

相手の宗教は何かなどということを、日本人の間で話すなどということもめったにない。ましてや宗教問題がアブナイ話題である外国人との会話に登る可能性も高くない。

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ただ稀に、文化や歴史などのような深い話題になることがある。そういう会話をするだけの一定の親密さが相手と生まれた時である。

 

僕は、そんなとき、いつも、確信をもって仏教徒と答えている。

 

それは外国人には、想定通りの答えなのか、大概は満面の笑みを浮かべ、日本通の人の場合は、どの宗派?などの質問になっていく。

 

2018年の第2日も正月のプロトコルは維持された。箱根駅伝の往路優勝を見きわめてから、散歩に出かけた。目的地は築地本願寺だ。

 

僕の宗派は浄土真宗だ。お東、お西というさらなる区分については、時の権力者との折り合いのための便法で、その後、発生した宗教論理の本質には一切かかわりがないという前提で、無視し、忘れた。僕の祖父は浄土真宗の僧侶だったにもかかわらずである。

 

日本人の大半が、宗教は?と聞かれると、無宗教と答える人が大多数だというコラムを読んだ記憶がある。それがほんとかどうかは別としても、現代の日本人が、自分の宗教を躊躇なく語れるような環境にあるわけでもない。

 

無宗教な人間であることなど原理的に不可能だと思うのだが、その是非はともかく、僕は、親の宗教が仏教だから仏教徒になったというよりは、少々踏み込んだ仏教徒である。

  

仏教徒の定義はニールバーナ(涅槃)を信じるものだ。その意味ではその方向を良しとしているという程度には仏教徒である。

 

新しい情報センターや、小さいが、まともな仏教書店を新設した築地本願寺が、雲一つない青空を背景にきれいだった。

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境内の入口に置かれた今年の漢字は「開く」だった。

 

宗教だけではなく、個人、家庭、社会、世界がより開かれていけばいいと思う。そういう意味で、良い文字を選んだものだと思った。