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グローバル化はコミュニティクラブを殺す    (The Guardian)

週末の地元クラブのワクワクするような勝利の余韻に浸りながら、日課となったThe GuardianのFootball欄でのめぼしい記事探しをした。

 

Buryの悲劇以来、サッカーのグローバル化と地元ファンというものに切実な関心が生まれたので、嫌でも、BuryやBoltonの続報に目が行く。

 

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Jonathan Wilsonという記者の、サッカークラブのグローバル化は今後も多くのBuryの悲劇を生み出すだろうという、グローバル化の持つ負の面を嘆く記事があった。

それをざっくりと要約してみた。DaZnの到来によって、イマドキのグローバル化のトレンドの中に組み込まれ始めたJリーグ。その齎すプラスもマイナスもよく理解しておきたいとしみじみ感じた記事だった。

 

https://www.theguardian.com/football/blog/2019/aug/31/turning-clubs-global-brands-means-more-burys

 

お金や人々の関心が、一握りのグローバルスーパークラブに集中する中で、今や、スタジアムでは多くのドラマや超弩級のプレイが生まれている。ただ問題は、それを達成するための代償が大きすぎることだ。

 

プレミアリーグがグローバルなマーケッティングを積極的にすすめた結果、英国のスタジアムに、アメリカやインドからのファンが大挙訪れることを否定する気はない。僕の中のリベラルでグローバルな世界観がそれを寿いでいる。しかし心の奥底をよく眺めてみると、このトレンドを心から受け入れられない自分がいる。

 

僕にとっての地元クラブ、サンダーランドは、そもそも、選択の余地なく、僕の身体の一部となっているのだ。僕の家族も僕自身もそこで育ち、父や友人と若いころからスタジアムに応援に行った記憶がそこここに満ち溢れている。


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この気分は、合理的というものとはほど遠いかもしれない。過剰に美化された故郷という記憶かもしれない。ずっと昔に、僕たちの祖先がアイルランドスコットランドから職を求めてやってきて、サッカー場にようやく自分たちの居場所を見つけたというような過去がそこにはある。

 

サンダーランドとはチーム成績やファンが誰かということ以上に、自分が何者なのかという問いの中心を占めているのだ。

 

地元クラブ、すなわちBuryやBoltonがなぜ大切かということの理由がそこにある。

 

だから自分の居場所が大波に押し流されてしまった時の気分は、他にも選択肢のある外部のファンとは同じように語ることはできないのだ。

しかしナイーブなことも言っていられない。

 

サッカーにとってもお金の果たす役割は大きい。

 

  

初期のプレミアリーグを支配していたクラブ、Preston, Sunderland、Aston Villaは、スコットランドのトップタレントを買うことによってその優位性を達成した。

 

1895年の最初のクラブワールドカップで英国の王者サンダーランドが、スコットランド王者Heartsを5対3で破った。

 

この時、両チームの22人の選手はすべてスコットランド人だった。

 

リバプールチェルシーというクラブが有料でのスポーツビジネスを作ろうとした球場オーナーたちによって設立された。

 

プロリーグというものもそもそもコミュニティとビジネスの心地よい連携の中で生まれたわけでは決してなかったのである。

 

 

しかしサッカーの世界のリッチとプアの格差はいまほどひどくはなかった。

 

たしかにトップクラスの選手たちが繰り広げる、特にチャンピオンズリーグのノックアウトステージは、未曽有のドラマを生み出している。

 

しかし問題は、それに価値があるのかどうかだ。

 

 

BuryとBoltonでは、誰がクラブを所有できるか、オーナーはどのような行動を義務付けられるかについての規制がほとんどない環境で、特定のオーナーが犯した個別の過ちによって窮地に立ったのである。

 

しかし彼らを瀬戸際にまで追い詰めた理由は、別に彼らに固有のものではない。

 

これは全システムに関係する問題だ。

 

訳知り顔で、92のプロクラブ(それに加えてリーグに属さないプロクラブ)もある国は他には存在しないと指摘する人もいる。

 

だからこういった運命もある意味避けられないのだと。

 

しかしこの92のプロクラブの存在こそが、イギリスのサッカーの最大の魅力なのだ。巨大なスーパーマーケットが街角の小売店を飲み込んでいくという経済的論理をサッカークラブに適用すべきではない。

 

選手、監督、投資、関心が西欧の一握りのリーグの一握りのクラブに吸い込まれていくというのは世界的なトレンドである。アルゼンチンやブラジルリーグの試合を観ると、それらの国のトッププレイヤーの素晴らしいパフォーマンスを知っている者達にとっては衝撃的なほどクオリティが低い。

 

 

アフリカのネーションズカップを観戦に行くと、スタジアムが空っぽであることが多い。この大陸では、ゲームを見に行くという文化が消滅してしまっている。サッカー関係者は、欧州で行われる試合をバーやビデオホールの衛星テレビで見るのが好みなのだ。スタジアムにサッカーを見に行くファンのことなど誰も気にもかけていない。

 

皮肉なことに、英国の小規模クラブへのプレッシャーが、4つの部門すべてにおいて過去40年で観客数がもっとも好調な状況の中で高まっているのだ。

 

危機の本質はプレミアリーグとその他のリーグのぞっとするような格差から発生している。

 

1992年に当時の一部リーグ(Divison1)の全チームがリーグから離脱して、現在のプレミアリーグが生まれた。この離脱したクラブの貪欲が今の状況の原因なのである。

 

これらの離脱したクラブは今、どうなっているのか。外国のオーナー、外人監督、外人選手、そして次第に外人ファンを擁して、イングランドにたまたま拠点のあるグローバルブランドとなってしまったのだ。

 

他のスーパークラブに比べて、ファンのコミュニティ感覚が強い、リバプールでさえ、お金の圧力からは逃れることはできていない。

 

とするならば、僕のサンダーランドへの合理的とは言えない情念、帰属意識はこんな現代サッカーのどこに居場所があるというのだろうか。

 

 

強いものだけが強くなるという力学を受け容れることなく、グローバル化のメリットを享受することはできないのだろうか。自分たちのコミュニティを破壊することなしに、コスモポリタンになることはできないのだろうか。サッカーゲームやプレイの質は史上かつてない高みに達しているということを否定するつもりはない。ただそれを達成するためのコストがぞっとするほど大きいのだ。(以上)