21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

老いること、死んでいくということ

2019年8月13日(火)

 

それなりに長く生きてくると、周りの人を送る、送らねばならないことが多くなる。

だからといって人が死んでいくということの意味がわかるわけでもなく、その有様を否が応でも目撃しなければならなくなるだけとも言える。

家族や知人が衰えて行くということを実感として観察しながら、人はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか、そして、自分はなぜ生まれ、どう死んでいくのかということを自省することになるのだ。

 

自分の起源も終焉も自分とは無縁であるということが人間の実存の特徴である。

自分が生まれることは自分には一切かかわりのないことであり、自分が死ぬということを自分の眼で確認できるわけでもない。

原理的に自分の生き死はわからない。

ただ自分以外の人間の肉体が亡びていくことだけは実感を持って体験することができる。他人の死というものが、自分の死というものとどうつながっているのかということに対する解を求めるのも原理的に難しいことは前提だが。

そういう諦念と呼ぶ方がふさわしいような不全観の中で、ぼくたちは他人の肉体が次第に滅びていくのを見つめることになる。

 

親や自分の係累の死を見つめるということは、そういうことなのだ。


魚川祐司さんの言葉を借りれば、「無限を思いながら有限を生きる」ことが凝縮的に現れる瞬間なのだろう。

感じて、ゆるす仏教



僕の親が死ぬとき、僕の子供たちはまだ幼かった。そして、彼らにとって、人が死ぬということへの初めての経験となった。

他人が死ぬということを直視するということが、実存における成熟というものにとって不可欠だとするならば、老人は、若者に対して、死生観そしてそれぞれの実存の兆しのようなものを教えるために死んでいくのかもしれない。

だから、近年における逸脱を別にすれば、人類は長年にわたって老いていくことを、荘厳なものとしてとらえてきたのだろう。

形のある世界から形のない世界へと移行していく姿を見せること、それが老いていくということなのだ。自分の老いというものを考える時にいつもこんなことを思っている。