若冲さまには及びもないがせめてなりたや街の画家(保坂和志、書きあぐねている人のための小説入門)
2017年3月21日(火)13℃ 雨
112.359¥/$
三寒四温というのは日本の気候を表すのに適した表現なのかどうかは知らないが、まさに、季節は行きつ戻りつしている。昨日の春分の日、日向を歩いていると汗をかくような温かさだが、休み明けの今日は一転、冬のような雨が降っている。体調管理がままならぬのも当然だ。
最近、以前読んだ本で、自分が横線を引いている部分を読み直すようになっている。新刊本を買うスピードが減ったというわけでもないが、読書というものは繰り返し読むことにかなりの意味があると実感しはじめているからだ。
最新作はキンドルで読んだ、保坂和志が10年以上前に書いた「書きあぐねている人のための小説入門」(草思社)を眺めている。彼が、小説を書くというプロセスを精密に説明している。かといって、いわゆるマニュアル本やテクニック集にならないのは、彼の根本にある小説観によるものだ。テーマ、定型的な物語を排するという姿勢は、僕が、ずっと激しくひかれ続けている蓮實重彦のゆらゆらとした前言撤回の文体に似ている。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 書きあぐねている人のための小説入門。
10年以上前の僕はこんなところに線を引いている。
『小説というのは本質的に「読む時間」、現在進行形の「読む時間」の中にしかないというのが私の小説観であって、テーマというのは読み終わったあとに便宜的に整理する作品の一側面にすぎない。
「小説の豊かさ」というのは、テーマのような簡潔で理知的な言葉で語れば足りるものではなく、繁茂する緑の葉に木の幹や枝が隠されていくように、簡潔な言葉で説明できる要素が、次から次へと連なる細部によって奥へ奥へと退いていくところにある。
小説には、かならずどこかで現実とのつながり、現実の痕跡、現実のにおい、みたいなものがなければならない。』
語り口は平易なように見えて、保坂和志の小説は決して読みやすいとはいえない。彼が現実を、たゆむことなく、その書き言葉の中に押し込めるその力業のせいだろう。読みなれた定型的物語へと還元して片づけてしまうことを読者に許さない緊張感が常に彼の文体には漂っている。
こんな言葉が、その独特な禁欲を一文で物語っている。
『小説家は、すでにある形容詞でものを見てはいけないのだ。』
アマチュアながら文章を書くということにこだわっている僕にとっては、この本の中の風景を描くという章が一番面白かった。当然、この章は傍線だらけになっている。
『子供はみんな絵を描くけれど、それは子どもがこの世の中に絵というものがあることを知っているからだ。たとえば、花の絵を描く子供は、花そのものを描いているのではなく、花の絵を見て花の絵を描いているだけだ。自分の前に絵がなくても、絵を立ち上げることができるのは本当の画家しかいない。
小説の書き手もまた、画家が三次元を平面に押し込んだように、三次元の風景を文字に変換しているということで、そこには強引なまでの力が加わっているはずだ。
風景を書くのが難しい理由の本質はここにある。三次元である風景を文字に変換する(押し込める)ということは、別な言い方をすると、視覚という同時に広がる(つまり並列的な)ものを、一本の流れで読まれる文字という直列の形態に変換するということである。
知覚全般は一挙的(並列的)なため、それを線的(直列的)な言語に置き換えるのは脳にとって負担が大きく、それゆえ感動も大きくなる。 』
作家にとって一番難しいのが風景描写だが、まさにその風景描写の部分にだけ、作者の身体性が介在することができる、と保坂は言う。だからこそ、そこに小説家の文体が生まれるのだと。
東京という街をぶらぶらすることが多い。自分が観た東京という風景をなんとか、僕なりの文体によって言葉に置き換えたいという想いが日ごと強くなっているからである。
若冲のように何年も、庭の鶏の動きを見つめ続けるまでの烈しさは無理としても、川べりに座り、画架立てて、スケッチする人のような、その時間の中に立つ覚悟がいるのかもしれない。