映画の時間:海街diary;鎌倉ー内閉する小宇宙
鎌倉という街は、日本中のどこの街とも同じように、世界中で起こっているすべてのことに繋がっている。それはあたりまえのことだ。
しかし、鎌倉という街には、その街の中に閉じようとするミクロコスモスの志向性がある。
特に、映像に描かれる時に、鎌倉という小宇宙の意味が鮮やかに露呈する。
それは小津安二郎、成瀬三喜男の名を出すまでもなく、一つの伝統のようなものになっている。
吉田秋生がその傑作「海街diary」の舞台に鎌倉を選んだ時に、この作品は、この長い長い記憶に繋がる運命を受け入れているはずだ。
そして映像作家の是枝裕和が、コミックという分野を迂回することで、この伝統に繋がった。
日本映画の精髄、黄金時代に、今回の作品がどれほど肉薄しているかということを語る資格は僕にはない。
良い意味でも悪い意味でも、淡彩画的であるのが、この映画の特徴だ。
僕は、映画館の中で、その淡彩画の世界に深く浸ることを楽しむことができた。
実際に、観光客として訪れる鎌倉は、道も、狭く、いつも混雑している。そして、自分がその原因の一つであることはすべて忘れて、いつも、道の狭いことや、混雑に悪態をついている。
この映画の中で、描かれる鎌倉や、多くの場面の舞台である古民家は、まさに小宇宙だ。
生活者だけが存在する世界で、観光客のような外部者が描かれることは少ない。
鎌倉の美というものが、外部からの介入に脆弱であるという矛盾した本質を見事に描き出している。
鎌倉という現実は、観光客という外部を必要としている。しかし鎌倉という理想は、外部を拒絶しなければ生き延びることができない。
父親が妻と3人の娘を捨てて出奔する。その後、妻は、娘を捨てて家を出る。父親は一緒に駆け落ちした女との間に娘を儲ける。父親は、その新しい女とも死に別れ、新しい女と結婚した。
その父親が、山形の温泉町で亡くなり、父親と母親に捨てられた娘たちのこの小宇宙に小石が投げ込まれるところから物語が始まる。
三姉妹は、葬儀に山形を訪れ、腹違いの妹と出会う。
血の繋がっていない母親のもとに残された妹(広瀬すず)との間に、血の繋がりを感じた長姉(綾瀬はるか)が鎌倉で一緒に住もうというところから、この小石が次の波紋を生み出していく。
小宇宙に投げ込まれた小石がもたらす波紋が新しい小宇宙へと収斂するまでの1年を描く淡彩画のような世界。
綾瀬はるか、長澤まさみ(次女)、夏帆(三女)、広瀬すず、樹木希林(大叔母)、風吹ジュン(近所の定食屋店主)、大竹しのぶ(母親)。
魅力的な女優を贅沢に配置した、女優の映画だ。
とりわけ、弱さゆえ、夫に捨てられ、子供たちを捨てた、「だらしのない」母親を演じる大竹しのぶの演技が、淡彩画の中で、唯一、色彩が濃縮された部分として突出している。
こういう人がどんな家族、親族にも一人はいる(あるいは自分?)というような普遍的なリアリティを発散していた。
語りたいことはたくさんある。
しかし突き詰めれば、この映画を楽しむことができるかどうかは、日本映画の中にある、女優の映画という伝統や、女性コミックの持つ繊細さが折り合わされた心地よい特権的時間に浸りきることができるかどうかにかかっているかもしれない。
そしてその小宇宙に自分の居場所がないということを自覚して、共存できるかどうかという危ういバランスの中にあるということが理解できるかどうか。