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宗教の時間:一法庵のポッドキャスト

不思議なことがある。

 

人生における苦(というか僕の苦しみ)を考えたときに感じる奇妙な感覚だ。

 

精神的な不安とかストレスに対する対策という、功利的な理由で、僕も、マインドフルネスというものに出会った。

 

人間というものは、毎日、様々な苦(不全感、不安)に多かれ少なかれ、悩んでいる。

 

仕事の悩み、親の心配、子供の心配、パートナーとの関係、上司、同僚、部下についての悩み。

 

悩みにはある意味きりがない。

 

それをすべて自らの「頭の中の声」、すなわち思い(Thinking Mind)のせいと見立て、日々の瞑想(呼吸を見る瞑想)によってそれを克服していく手法としてのマインドフルネスが近年、人々の関心を集めるようになっている。

 

思いが暴走して、苦しみを強める場所があると、ビルマスリランカ、米国経由のいくつかの流れがオウム後の日本の精神世界で合流した宗教的実践であるマインドフルネス瞑想は言う。過去への悔恨、傷心、未来への不安。こういった場所では、気づき(マインドフルネス)という構えがないと、思いはどんどん暴走し、心を徹底的に傷つけるのだと。

 

これを克服するために必要なのはシンプルである。今、この瞬間に戻ってくること。

 

今、この瞬間に戻ってきたとたん、この声は消滅する。そしてそこに青空に繋がると表現される安定した境地が現れる。

 

知的に理解しただけでは、本当の解決にはならない。それを実感するための手法として、瞑想という実践が必須とされる。

 

本格的に座禅を組んでいるわけではないが、こういった流れを知的に理解するだけでも、少しは呼吸がしやすくなるところはある。

 

実際、僕にとっては日曜日の夜に配信される山下良道さんのポッドキャスト法話によって助けられていることも多い。

しかし実用的なマインドフルネスには限界があり、しかも、害もあるというのが、山下良道さんの最近の法話の内容である。

 

 

 

一法庵

一法庵

  • 山下 良道 Sudhammacara Bhikkhu
  • 仏教
  • ¥0

 

 

 

曰く、マインドフルネスというのは、仕事のストレスを解消するための便利な手法としてとらえるのはあまりにもったいない話だ。

 

なぜなら、それは、人間にとっての究極の問題である生と死の問題に対する解決をもたらしうるものだからだと。

 

私たちが生きている近代というものを、山下さんは、死んだら終わりの命の世界観が支配する場所だと考えている。限られた命が終了したときには、何もなくなってしまうというニヒリズムが支配する世界。人は生きている間だけを何とか楽しく、よろしく、生きようとする。いきおい、金によって支配される世界になる。人は他人より多くのお金、モノ、地位、名声そして、長い生命を獲得するために、壮絶な競争人生を走り続ける。

 

それはそもそも破綻しているじゃないかと彼は言う。

 

85歳で終わる人生計画を緻密にそれを実践することを喧伝する風潮に対して、それは地獄じゃないかとばっさり切り捨てる。85歳以降の人生はどうするのか。

 

死んだら終わりの命を前提とした人生など、どれほど世俗的成功を得たとしても、意味がないじゃないか。

 

究極の問題とは、つきつめれば、死んでも死なない命を見つけることができるか。

 

そして瞑想とは、死んでも死なない命、彼の言葉で言う青空に繋がるための練習なのだと。

 

あらゆるスピリチャル、霊性の問題が、一種のいかがわしさの中で、語られる世間の中で私たちは生きている。本来、人間の究極の問題についてのガイダンスを行う機能を営むべき宗教者は、形式的な葬儀というもののスペシャリストと化してしまっている。それを既存宗教の宗教者も巻き込んで、変えていこうという不屈の持続する意志が少しずつ、脚光を浴びるようになってきている。

 

彼は、自分もその流れの中に属しているマインドフルネスというものがブームになるなかで、必然的に生じた、わさび抜き(宗教性の払拭)の持つ潜在的危険性を指摘しはじめている。人間の心を救う哲学としての仏教というものにすべてを賭けてきた宗教者ならではの抜群の見識だ。

 

最初に不思議だと言ったのは、彼が語りかけるこういった言葉が不思議だということではない。彼の向かっている方向性は正しいし、僕は、これからも、彼の法話を聴き続けるだろう。

 

不思議なのは、僕自身のことだ。

 

自分の思いが、究極の問題である生と死へと直線的に向かわないという事実なのだ。

 

いつまでたっても、僕の苦、思いは、仕事の不安、将来の不安のあたりでぐるぐる回っている。

 

たまたま今のところ、とりたてた健康の不安に襲われていないからなのかもしれない。

 

だから比較的平安でラッキーだといいたいのではない。

 

むしろ反対だ。

 

生と死という究極の実存の問題に、微細に反応できないほど、自分の身体というのは近代というものに馴致されてしまっているのかという軽い絶望感だ。

 

近代という仮想世界はあまりにも精巧で、自分の身体の隅々まで張り巡らされ、デジタルを待つまでもなく、既に完全に仮想化されてしまっているのだろう。

 

であるならば、山下良道さんが、雲と呼ぶ閉じられたマトリックス的空間から逃れることはおそろしく難しいことになる。

 

青空の存在というものを知的に理解することが希望を与えてくれることはは大切だ。しかし、そこに向かうためには何層もの脱出を続けるというアクロバティックな継続が必要になるのかもしれない。年を取れば取るほど、焦眉の急になるというのに、これには、ちょっと茫然としてしまう。