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奇跡のインタビュアー ジョン・ブロックマン

ジョン・ブロックマンが、今、一番注目しているとWiredのインタビューで言った、ロンドンのスーパーキュレーターであるHans Ulrich Obrist相手の1999年の対談を読んだ。

http://www.brockman.com/press/1999.02.artorbit.html

辣腕の文芸やソフトウェアのエージェントにして、きわめてユニークな非営利法人であるEdge.orgの主催者であるブロックマンがどのようにブロックマンになっていったかを自らの言葉で説明している。

ロックマンが働き始めでまだ20代だった1960年代半ば、音楽家のジョン・ケージが開催していたサロンが、その後のネットワーカーとしての彼を形成していくことになった。

そこで描かれるジョン・ケージとの関係はなんとも言えずいい。

「当時、詩人のDick Higginsが美しい自分の自宅に、若いアーチストを招いて、ジョン・ケージと触れ合う集まりを行っていた。ケージが自分できのこ料理など作って、それをふるまい、食事をしながら大いに語り合った。ケージも若いアーチストも参加したものはそれぞれ多くのものを得ることができた。サイバネティックの創始者ノーバート・ウィナーや、マクルーハンの名前を始めて知ったのもこの集まりの中だった。」

その頃には、皆がはっきりとした形で表現できてはいなかったが、いろいろな人々の作品の中に内在していたものが、こういった対話の中で、サイバネティックスやコミュニケーション理論として明らかになっていたのだ。今になってわかることなのだが、そういった新しい潮流の真っ只中に当時20代の自分がいたとブロックマンは回顧している。当時一種の文化的権威となっていた文芸評論家たちが、科学を一顧だにしたなかったとに比べると、こういったアーチストたちは、On the edgeに位置する科学者たちの活動に敏感に反応していた。

科学のバックグラウンドもないブロックマン青年は、こういったアーチスト達の時代についての先鋭な感覚に導かれながら、独学を進めていく。

「ケージが奨める本はとにかくすべて読むことにした。さらにはその本の後ろについている参考文献リストも片っ端から読んだ。たとえばマクルーハンを読むだけではなく、彼が読んだ本もすべて読むことにしたのだ。こういう猛烈な読書の末に、興味深い道が開けてきて、より深いアイディアにたどりつくことができた。」

リース事業を行っていた彼は、それにあきたらず、常にクリエイティブなことにひかれつづけた。そして友人を助ける形で、昼はオフィスで働き、夜は劇場の運営を手伝うというような生活を送り始める。

そんな彼が出会うのは、人類学者のエドワード・ホール、ニューヨークにやってきたばかりのサム・シェパードチャーリー・ミンガス、アンディ・ウォーホールマーチン・スコセッシ綺羅星のような人々なのが、ブロックマン的といえるのかもしれない。

まるで小説のようなのは、ニューヨークのインディペンデント映画の伝説になったジョナス・メカスとの出会いだ。昔、フォークシンガーだったという、ブロックマンがセントラルパークでバンジョーを弾いていると、8mmを持った男が近づいてきて、彼を撮影しはじめる。これがメカスだった。1時間ぐらい散歩するうちに、彼は、メカスが主催していたシネマティックの経営をまかせられることになった。彼の二枚のわらじ状態は続いていくことになる。

シネマティックや、他の映画祭のプロジェクトをまかされる中で、彼は、映画と他のアートを組み合わせるということで続々と斬新なプロジェクトを展開していく。その後、マルチメディアディスコのオープンや、リンカーンセンターの映画プロジェクトに絡みながら、こういったメディア的なことについての辣腕コンサルタントになっていった。

その後、自らの興味に引かれるままに、自らも著述を始めたブロックマンは、その縁で作家の集まるコンファレンスに参加し、そこで多くのベストセラー作家に出会う。その後、彼らに依頼されるままに、エージェントの役割を果たすことになるのだ。コロンビアのMBAでもある彼は、この分野でも頭角を現す。

ロックマンをエージェントが本業で、著述やエッジが副業と見る人も多いが、実際は逆なのだと彼はこのインタビューの中でも強調している。

仕事とも趣味ともつかないこういった活動の中から、ケージとのサロンの記憶もあって、自らのサロンとも言うべき無数の夕食会を開くようになっていく。

ただブロックマン自身はこのインタビューの中でもサロンと言う言葉の響きを嫌っている。

「最初にサロンという言葉が大嫌いだ。この言葉には、金持ちがクリエイティブな人々に恩着せがましいやり方でもてなすというような響きがある。私の人々との関係はこんなものではない。サロンなどというより、単純にディナーといってもいい。私は、世界の全体を理解したいと考えているような人々だけが大好きである。そんな人は多くはないので、私が一人でいる時間も実は長い。こういうディナーを始めたのも、時折こういう好きな人々たちを集めてディナーの席で対話ができればいいという理由からだ。誰をディナーに呼ぶかも、その時点で私が何に関心を持っているかによって決定される。」

80年代になると、彼はそれまで深く関わっていたアートの世界から身をひくようになる。これまでの交流に物足りないものを感じ始めていた時期だという。

1980年にリアリティクラブを彼は立ち上げる。これは、多数の人々とディナーをするという彼のやり方を少々公式なものにしたものだ。ディナーに集まって、参加者がスピーチをし、議論をするという集まりだった。ただ、内輪だけの集まりではなく、科学者がアーチストたちにスピーチをするとか、領域横断型の試みだった点がユニークだった。これは10年近く続いたが、この運営を支えた友人が山で遭難することで、いったん頓挫しそうになる。

またブロックマンの嗜好も、1983年にラスベガスのコムデックスで新しい文化の最先端に立つギーク集団の情熱に触れることで劇的に変化し始めていた。

そういった状況の中で、1993年ごろにウェブが立ち上がり始めた。

リアリティクラブのオンライン版としてエッジ財団を立ち上げたのはその頃である。

実際の運営は、彼が信頼するメンバーによって構成されるプライベートなメーリングリストがあり、そのメンバーは他のメンバーによる推薦によってのみ拡大されていくという形になっているという。

そういったネットワークの中で、友人からの紹介などで、ジョン・ブロックマンが関心を持った人と、彼が直接にインタビューを行い、その結果を自ら編集してメールで送信するという形で運営されれている。

ただエリートの閉鎖的集団ではないのは、そこで行われたインタビューはすべてウェブで一般に開示されていることだ。ただメンバー以外は、読むことしかできない。ブロックマンは、メンバー以外の読者の質問などに答える気はさらさらない。

その意味では、出版とは言えないだろうと自分でも認めている。

彼がインタビューにこだわるのは、素晴らしい思想家たちの生の声を残すことだけが時間の試練に唯一耐えうることだと考えているからだ。

深い思考をしている人たちの仕事をジャーナリスティックに解釈することなど彼には意味 がない。一次情報、すなわち偉大な人々の生の声だけが重要であるというのが彼の考えだ。

「100年後でも、ダニエル・デネットや、リチャード・ドーキンスとの直接のインタビューには、誰かにとって読む価値があるはずだ。印象論やジャーナリスティックな記事や本などは時間の試練に耐えられない。またブロックマンが進化生物学や量子工学についてどう考えているかなんかどうでもいいじゃないか。私にできるもっとも良いことは、こういった素晴らしい人々の考えている本当の言葉を、読みやすい形で残すことにしかない。」

エージェントとしてだけでなく、エッジの編集者、インタビュアーとしてこういった超一流の思想家たちと交流することは、何にも変えがたい喜びだという。

「まるで世界最高の大学院を運営しているようなものだ。しかも、私だけが唯一の生徒なのだ。」

エッジとはあなたにとって何かという質問に対して、彼はこんな風に答えている。

「エッジは非営利法人である。エッジはビジネスではない。むしろ自分がビジネスから逃れるための手段のようなものだ。70年代の初めに、グレゴリー・ベイトソンが私にこんなことを言った。『人類の発明したものすべての中で、経済人ほど退屈なものはない。』さらに最近読んだドラッカーの本のどこかで、今ほどソーシャルな空間が必要とされている時代はないと書かれている。このソーシャルな空間を作り上げるのが私の目標なのだ。」

これはある意味、奇跡的なストーリーだ。その中に残されている言葉をすべて読みつくしたいという情熱にとらわれている自分がここにいる。