21世紀ラジオ (Radio@21)

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Howard Zinn死去;普通であることのラジカルさ

Howard ZinnのA People’s History of the United Statesを読んだ時、米国の正史とはかけ離れた赤裸々な米国の血まみれなリアルな過去の記述にある意味ぎょっとしたのを鮮明に覚えている。

ちょうどその頃、米国という国の異様さを感じていた頃だったからだ。湾岸戦争発生時、ぼくはアメリカに住んでいた。湾岸戦争の開戦に対して、国際的には多くの疑問が呈されていた。日本でも知識人たちが共同宣言を発表した。

当時のスーパーボールが独特だった。ホイットニー・ヒューストンが歌う星条旗よ永遠なれに、観衆が普通のスポーツイベントにはないほどの熱狂で答えた。

同僚のアメリカ人に、日本や世界が感じていた「客観的な」疑問を言ったところ、彼は、少し声を潜めるようにいった。「気をつけろ。アメリカ人に対して、そういった意見は言わない方がいい。外国人が、今、そういう意見を言うのは危ない。」

極めて、知的でビジネスライクな、若い友人の口から出た言葉が、アメリカという熱狂の国の怖さを実感した瞬間だった。

そんな国で、これほど、正史とかけはなれた発言をすることの「危険」を、Howard Zinnの文章に感じたのだ。

彼が亡くなったことは、サリンジャーほど、報じられていない。それが、この思想家のアメリカにおける立ち位置をみごとに示しているような気がする。

彼の死はもっと報じられてしかるべきであると、ニューヨークタイムスのBob Herbertは、A Radical Treasure(ラジカルな国の宝)というコラムで書いている。

彼の文章の中から、Howard Zinnという人のことをもっとも表現している部分を抜き書きして、訳してみた。

A Radical Treasure
http://www.nytimes.com/2010/01/30/opinion/30herbert.html?ref=opinion
私はいつも不思議に思う。なぜHoward Zinngがラジカルと言われるのか。(彼も自分のことをラジカルと呼んだ。)彼は、不正義と不公正に対しては常に挑戦することを自らの義務であると感じるような驚くほど上品(decent)な人だった。労働者が自らの労働に見合った公正な対価を受けるべきであること、企業が我々の生活に過度な力を行使し、我々の政府に過度な影響力を与えていること、戦争が、残忍で、破壊的なので、戦争行為に代わる選択肢を見つけるべきであること、黒人やその他の人種、少数派が白人と同じ権利を与えらるべきこと、強力な政治リーダーや企業エリートと毎日生計を立てるために苦闘する普通の人々の利害は異なることなどを指摘することのどこがラジカルだというのだろうか。

Zinn氏はアメリカの歴史の美しいうわべを剥ぎとり、長い間、隠蔽されてきた下劣な現実を暴露することを使命としてきた。彼の1980年に出版された、もっとも有名な著書である「A People’s History of the United States」の中で、Andrew Jacksonについて、彼は次のように書いた。

“If you look through high school textbooks and elementary school textbooks in American history, you will find Jackson the frontiersman, soldier, democrat, man of the people — not Jackson the slaveholder, land speculator, executioner of dissident soldiers, exterminator of Indians.”

「小学校から高校の米国史の教科書の中では、ジャクソンは、フロンティアの男、兵士、民主党員、国民の味方として描かれるが、奴隷所有者、土地投機家、反対意見を持つ兵士の処刑者、インディアンを絶滅させた者としては描かれることはない。」

これはラジカルか。とんでもない。(以上)

自分が見たこと、聴いたこと、体験したことを、そのままに語ることは、普通のことのはずだ。それがラジカル(過激)といわれるのは、世の中というものが、普通の考え方で成立してはいないからなのだろう。

日米同盟、記者クラブ、官僚支配、検察ファッショ等々。自分で感じたことを普通に語ることが、多くの波紋を生み出している。

システムは、常に、公定の「普通」を、ぼくたちに押しつけてくる。その与えられた「普通」を受け取らない普通さは、決して、容易に獲得されることはない。

だからこそ、むしろ普通であることが、ラジカルと呼ばれなければならないのかもしれない。