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菅原琢「世論の曲解」を読む

テレビや新聞の報道でいつも気になるのは、世論調査というものを大上段にふりかぶって、政府の行動を批判するというパターンの多さである。いつも不思議なのは調査されたのは誰かということだ。視聴率調査も世論調査も、自分のまわりであまり対象になった人がいないという点で共通している。ぼくの場合は、街角でアンケートお願いしますと言われたら、断固として嫌だというタイプなので、そういう対象にならないのは調査側の問題ではないが、どうも、世論調査に基づいた厳しい非難を聞くと、いったい誰の意見なのかという気になってしまう。昔、日米安保条約に対する反対運動の高まりの中、時の岸首相(突然政権を投げ出した安倍さんのお爺さん)が、「声なき声」は私を支持しているという名(迷?)言を残した。その後、結成された「声なき声の会」が私たちはあなたを支持しないといったらしい。

それにならえば、私は世論に属しないと言いたい気になってしまう。

菅原琢さんという若い政治学者の「世論の曲解;なぜ自民党は大敗したか」(光文社新書)は、自民党が、有権者に対応するために必要だった「新しい自民党」(小泉は支持するが自民党は支持しない、都市住民)を切り捨て、古い自民党(安倍、福田、麻生、地方)に戻ることで、今回の惨敗に至るプロセスを、世論調査を批判的に検証する中で明らかにしている。特に安倍のイデオロギー的なところが、いかに、若い有権者を遠ざけていったかというところは、その分析の流れも含めて面白かった。

ただ、この本の面白さは、そういった分析のあざやかさにはなく、世論調査というものへの批判的姿勢、そしてそういった批判性に基づいて行われるべき学者の社会的発言への一種の倫理性のようなものへの意識だ。

特に、ネットなどに現れる「世論」を過大に評価し、それを前提に「若者の右傾化」を論じる北田暁大鈴木謙介高原基彰などの社会学者たちに対する厳しいトーンが印象的である。こういった発言が、無批判なマスコミや、世論調査という名の世論操作を通じて、重大な政治的帰結を生み出すことへの明確な怒りがある。学者である彼の文章の中にほとばしりでる、学問的ではない表現がそれをあらわにしているあたりも面白かった。

「世論調査は、多くの人員と資金を投入して行われる。面接調査であれば、一人の調査員が2日間地域を回ってやっと10人、20人の回答を集め、それが全国で積みあがって2000人弱になる。より低コストのRDD法でさえ、手法の研究開発、電話番号の選定、オペレーターの管理にかなりの労力と費用をかけている。そうやって出てきた数字でさえ、慎重に見なければいけないのに、一人の人間がネット上で見かけた数例の書き込みなどから若者や「世の中」の傾向について論じられると考えるとすれば、それは驕りである。」

学問の名において、社会を語るのならば、それにふさわしい学問的プロセスを踏んでからにしろという政治学者の、社会的影響力を持ち始めている社会学者たちに対するきつい一発というところか。

一言で言えば、世論調査の恣意性を回避するためには、標本数を増やすこと、標本自体を選択する際に、一定のバイアスが入ることを明確に認識することが必要だという極めてまっとうなことが論じられている。つまり、「世論」と世論の乖離があるということだ。日常生活の中で、それほど、政治など意識せず、政治的発言などしないような普通の有権者が、選挙の流れを決めていくという当たり前の事実だ。

「普通の人々にとって、政治とは遠目で眺めるものである。主体的に関わるものではなく、ときどき客観的に見て、冷静に見定めればよいという感覚の雑事である。 一方、政治家とその周辺の人々からは、普通の人たちは見えない。その代わりに、世論調査や選挙結果のような数字だけが伝わる。世論調査や選挙結果の数字でしか伝わらない世論と、政治家や報道関係者の目の前にある、現場で感じる「世論」とは、かなり異なるものになってしまう。」

「本書では世論調査の結果を読むのは難しいと述べ、世論調査には限界もあることを指摘してきた。しかし一方で、これを読まなければ普通の有権者の意識はわからない。「世論」に逃げ込まず、世論に向き合う技術と努力を磨くことが、政治の専門家には求められているのである。政権党の政治家に限らず、小政党の政治家でも、報道関係者でも、評論家や学者でも、同じである。」

ぼくは、学者という人々が、より国政に関与すべきだと思っている。学問的、科学的アプローチが、民主主義には不可欠だと思うからだ。だとすれば、その前提となる事実を明らかにするジャーナリズムと、それを科学的に検証していくアカデミズムが極めて重要になる。

その意味では、ジャーナリズムがジャーナリズムの本義を忘れ、アカデミズムがそれが培ってきた学問的方法を粗末に扱っていては、民主主義の行方もおぼつかない。

そんなことを思い起こさせてくれる良い本だった。