21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

ハーバードビジネススクール、ツイッターを議論する

マッキンゼーコンサルタントたちのビジネステクノロジーに関するブログの中で、リンクされていたハーバードビジネススクールのAndrew Mcafee(Enterprise 2.0の筆者)が、ツイッターに関してビジネススクールで行ったディスカッションに関するコラムが面白かった。

ツイッターにはぼくたちがこれまでにやってきた17のことが混じり合っている」
http://andrewmcafee.org/2009/04/17-things-we-used-to-do/

ツイッターというのが何かというのは、未だにぼくの頭の中ではっきりしない。あれでもあるようで、これでもあるようで、そのどれでもないようでという印象を常に受ける。そして使い続ける過程でその印象も変わっていく。格好良くいえば、生成的場のような気がする。

そういったもやもや感を整理する上では、彼のクラスで行われた議論はとても面白いので、どこかでまたブログでまとめてみようかなと思っている。いずれにせよ、添付したコラムはおすすめである。

今回のタイトルにもなっている17のことというのは、クラスの中でのある学生の発言から来ている。

"Twitter's not a substitute for anything we used to do. It's a combination of about 17 things we used to do."

ツイッターはかつて私たちが使っていた何かの代替物ではない。それはかつて私たちが使っていた17のものの組み合わせである。」

17もないけれど、先生は議論の中から次のようなかつてあった何かを書き取ったようだ。
チャット
掲示板
Eメール
トレンドトピックの発掘
ニュース速報
マーケッティングとブランド構築
消費者感情のデータマイニング
友人や家族への現状報告
居場所、活動、気分、その他個人的情報のコミュニケーション
カスタマーサービス活動
関心のある情報の発見
関心が同じ人々の発見

そしてツイッターが、その使い方の輪郭が定まらないのではなく、おそらく、いつまでも、一つの使い方には収斂していかない汎用技術ではないかという仮説に自分としては関心を持っているという視点が面白かった。

それが、ぼくの実感には一番近い気がする。

ところで、このコラムで一番面白かったのは、最後に彼がツイッターを現実に使った話だった。週末に借りていたレンタカーのポンティアックG5のエンジンがかからず万策つきた先生は、ツイッターで車の状況を説明して、SOSを発信したらしい。

”Ignition key won't turn at all in rented Pontica G5. Anyone got any ideas-- help!"

数分後に、16件のツイートが戻ってきて、同じ指示を送ってきたというのだ。その結果、なんとか、エンジンはかかり、先生は難をのがれたらしいのだ。


先生が得た教訓は、GMの破綻ではなく、利他的な16通のメッセージを受け取ったことだった。このゆるい奇妙な技術が新しい隣近所感覚を生み出しているとすればそれは素晴らしいということだ。

このエピソードは、ぼくに四半世紀ぐらい前に、イランの砂漠で、ぼくが出会った助け合い精神を思いださせてくれた。

当時、ぼくは大学院生で、イラン革命のリサーチで数カ月テヘラン中心に滞在していた。

そのフィールドワークの一環で、テヘランからタクシーに乗って、聖地ゴムに向かった。ところが、タクシーが途中で、エンストを起こしてしまった。JAFも携帯電話もなくぼくたちは途方にくれたが、運転手は不愉快そうではあるが、さほどあわてず、ぼくに、水を入れるポリタンクを手渡した。そして道端で頭の上にかかげておおきくふれという。ピンとは来なかったが、言われた通りにすると、数分後に3,4台の車が止まって、皆、車から降りてきて、喧々諤々議論しはじめた。結局は、ぼくらは、別の車に載せられて、目的地まで連れて行ってもらった。金額がタクシーと比べてどうだったのかまで記憶はないが、イラン人の利他的なところに触れた良い記憶として残っているので、裏ではどうか別として、ぼくたちには暖かく接してくれたのだろう。ぼくらを乗せてくれたイラン人が、イランは良いところだろう、何かあっても、こうやって皆助けてくれるんだ。ところで、日本ではどうなっているんだと彼が質問した。ぼくは、日本では、何人も止まってくれることはないかもしれないなあ、でも、日本にはJAFという専門サービスがあって、多分、そこに皆連絡するんだろうなと答えると、彼は、ちょっと宙を見て、「それも悪くないな」とつぶやいた。

テクノロジーは隣近所そのものを変えてしまうのではなく、その現れ方を変えるだけなのかも知れない。

人は誰か他の人の役に立ちたいと思っている生き物でもあることは間違いないことだ。