21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

第23節 札幌8対0でアウェイ清水戦を制する

外に出ると、圧倒的な量感のある、体積を感じるような重く乾いた空気にぶつかった。息をするだけでも大変な気温だ。

 

こんな中、90分試合をする選手のことが気になった。昨年の今頃、アウェイの清水戦で、日本平まで遠征した。あの日も、かなりの暑さだった気がする。

 

あの時は、宮澤と都倉のゴールで2対1で勝った。終了後、車を駐車した材木置き場の特別駐車場まで歩く中、心地よさもあったが、疲労感が馬鹿にならなかったのを覚えている。

 

今日も日本平は暑いんだろう。

 

今日は残念ながら、ダゾーン観戦もままならない。

 

会議後の懇親会の席でスマホを確認すると、前半で2対0だった。その後気になって、確認するたびに、点数差が開いていき、結果8対0の大勝になった。

 

応援に行ったときでも、リアルタイム観戦でもない時に限って、こういう試合になる(笑)

 

帰宅してから、録画をフルタイムで2回観戦した。

 

真剣な観戦生活を開始してから、言っても、3年半である。学生時代に、クラブでサッカーをしたわけでもないので、どこまでいってもビギナー感はなくならない。

 

 

そんな観戦ビギナーの僕が、最近、お世話になっているのが、観戦プロの

らいかーると」さんの「アナリシス・アイ」だ。勘所をわかりやすく説明してくれるので、日々楽しく観戦することに役立っている。

 

アナリシス・アイ サッカーの面白い戦術分析の方法、教えます (小学館新書)

 

「らいかーると」さん曰く、サッカーは「時間」と「スペース」を奪い合い、ゴールを決めるゲームである。この「時間」と「スペース」を手に入れるための手段が「選手」であり「配置」であると。

 

時間というのは「周りの状況から判断して最適なプレーを実行するための時間」であり、「プレーができる時間」を決定する主要な要因が「相手から受けるストレス」だ。

 

次に「スペースがある」というのは、「プレーが可能な空間があること」である。

 

この観点から言うと、中2日明けのエスパルス戦は、時間もスペースも十分だった。

 

十分な休養明けで、中2日の広島に引き分けた試合に比べると、明らかに、エスパルスの状態は悪かった。

 

端的に言えば、前半から、球際の厳しさや、ハードなプレスがほとんど見受けられず、コンディション調整がうまく行っている、コンサドーレの選手たちは、ストレスなく、十分に考える時間と、パスをするスペースを探すことができた。

 

コンサドーレは、スペースを見つけるために、ボトムからのビルトアップするというよりは、シンプルに、広々と空いたスペースにロングパスを放り込んで、決定的なチャンスを作り上げていた。

 

こうなるとワントップツーシャドーの破壊力は全開になり、真夏の大殺戮が始まった。

 

結果、ジェイがハットトリック、切れ味のいいチャナティップが2点、武蔵が見事なミドルシュート、進藤の相手の心を折る三点目のヘディングシュート、そして、福森の壮絶なFKとオールスターキャストのケチャップ大盤振る舞いとなった。

 

大量得点の割には、不思議と達成感は薄かった。リアルタイムでのハラハラ感なしの観戦だったということもあるが、エスパルスの状況が悪すぎた。

 

この篠田という監督の采配能力はいまだによくわからない。FC東京の監督で、かなりのタレントを抱えながら、無策で負け続けたときにも、何がしたいのか皆目わからなかった。

 

今回も前監督が解任された時に、新監督として登場した時も、ちょっと大丈夫か?と思った。

 

北川、白崎と生え抜きの若手を無造作に抜かれ、中途半端に天皇杯勝ち残ったりするなど、気の毒な点はあるが、得点を加えられるたびに、カメラに抜かれる監督の表情が常に茫然としていて、敵ながら不憫だった。

 

ミシャの良さは、勝てば良いという考え方ではないところだ、時に言い訳めくとはいえ、負け試合でも良い点があれば、この点は良かったと言い切る点にある。

負け試合にさえ、覚悟と意志を感じるということは、悪い時でも応援をしつづけるうえでは最低必要となる条件だと思う。

 

今回も、悪いのは自分ですというようなあいまいなコメントに終始した。これは日本人監督でよくあるパターンである。これは取り合えず、頭を下げておくという日本的文化が見事に反映していて、ほとんど何も言っていないのに等しい。

 

自分が悪いヒトコトで締めくくるのはいつもながら、少し残念だし、プロとして無責任だ。「日本人的」である前にサッカーのプロであって欲しい。

 

前半からプレスが強くなかったのは、おそらく体力温存ということを考えたのかもしれないが、だとすれば、もっと守備的であるべきだった気がする。そこいらの決断が弱かったという意味では、監督の責任もあるのだろう。

 

しかし中2日の疲労の中で、このきちがいじみた暑さの中でプレイするというのは、どうにも分が悪かったのだろう。選手の動きはまったく精彩がなかった。

 

ここ数年、清水は札幌を苦手としているところがあるので、そういったメンタルな点もあったのかもしれない。

 

しかし、僕らも、1対7で負けることはあっても、8対0で勝つことがあるとまでは思っていなかったんだから、やはりサッカーというのは怖いものだと思った。

 

しかし今回の勝利を喜びすぎてもいけないんだろう。次節はホームとは言え、首位のFC東京が相手だ。ドームなので、戦う環境としては、両チームにとってイーブンだろう。今日の試合に比べれば、FC東京のハイプレスはかなり厳しいはずなので、まったく違った試合になるはずだ。

 

各選手が考える時間も短く、プレイさせてもらえるスペースも狭い中で、どう勝ち切るか。采配もあるが、個々の選手のスキルの戦いになるのかもしれない。ぼんやりとしたビルドアップを徹底してプレスで奪われ大敗した川崎戦のような必敗パターンだけは避けてほしい。

 

らいかーると氏曰く、

 

「独力で時間とスペースを生み出せる選手、周りの選手に時間とスペースを与えられる選手や、チームが手にした時間とスペースを無駄にしない選手が、上手い選手なのです。」

 

ジェイ、チャナティップ、福森あたりの顔が浮かぶ。彼らがどこまで、永井、オリベイラ、高萩、東、橋本、三田あたりより気力、体力、技術で充実していられるかだ。

体力、気力、技術力をあげての総力戦になる。

 

 


【公式】ハイライト:清水エスパルスvs北海道コンサドーレ札幌 明治安田生命J1リーグ 第23節 2019/8/17

 

 

  順位 勝ち点 勝数 分け数 負け数 得点 失点 得失差
第23節 6 35 10 5 8 39 28 11

 

 

 

小川洋子・岡ノ谷一夫 「言葉の誕生を科学する」は面白い

物事の起源を探るという構えは、おしなべて、うさんくさい。一言で言えば、すべて見てきたような嘘、見てもいないようなホラだからだ。

 

僕たちは、なんの準備もなく、無根拠に、この世の中に放り出される。それは個人であっても集団であっても類であっても種であっても同じだ。

 

にもかかわらず、僕たちは、自分のそして人類の起源が気にかかってならない。

 

最近、一念発起、中国語の文献をとにかく読んでみようと思った。その結果、すべての文字が漢字で表記されるという、膨大な漢字の大海、荒野を前に、茫然としながら、古代の日本人たちの絶望と断念と母語に対する決断を想像的に追体験した。

(土曜日なのに、言い方が、大袈裟になってしまう。)

 

母語の起源を考えていたら、さらに、連想は、言語そのものの起源へと横滑りした。

 

言語の起源を歌に見る科学者(岡ノ谷一夫)がいて、科学者という生き物に対して濃密な好奇心を持つ作家(小川洋子)がいた。

 

言葉の誕生を科学する (河出文庫)


シジュウカラの鳴き声 A song and a call of Japanese Tit

その二人が、言語の起源を語り合う対談集が、とてもエキサイティングだった。

 

科学者は言葉の起源を探るには、言葉のない世界にいったん遡る必要があると考えた。

 

言葉の前に、声、歌があった。発声を学習する動物が三種類いる。クジラ、鳥そしてヒトである。

 

当然、種の存続のために、オスはメスを求める。歌のうまい奴が多くのメスをひきつけ、繁栄する。

 

というような大きな仮説のもと、科学者は地下で活動するネズミやジューシマツの言葉以前のコミュニケーションの研究を続けている。

 

科学者には、そもそも、言葉(はなしことば、かきことば)に対する違和感がある。言語というものがコミュニケーションにとって不可欠ではないのではないかという思いだ。

 

人間はある特殊な遺伝子の組み合わせの結果、突然、言葉という異物を獲得することになる。そして、結局、この異物である言葉を得た瞬間からヒトの宿命が始まったと。

 

言葉の起源が15万年前、書き言葉に至ってはたかが1万年前に生まれた。

しかしこの言葉がヒトの宿命を加速させていく。

 

この仮説が、作家の物語への想像力を刺激する。

 

彼女のこんな妄想は、美しく、かつ哀切である。

 

「生物の中で唯一、言葉という奇妙な道具を手にしてしまった人間は、それ故に独自な進化を遂げた。時間を知り、神の存在を意識し、芸術を生み出し、自らを滅ぼす武器を作った。言葉を操ることによって生物界の頂点に立ったはずが、頂点の先にあったのは滅亡だった。この矛盾を生きているとしたら、人間とは何と可哀想で、けなげな動物であろうか。

 

あるいはこんな想像をしてみる。人類史上初めて言葉を喋った人間は、ある種の畏怖の念を抱いたに違いない。肉体の内側から出てくる、他のどんな種類の道具とも似ていない不可思議なもの。最初の人間はきっと恐れ、自問自答したはずだ。本当にこれを手にしてもいいのか、と。その恐れをもたらしたのが、滅亡の予感だった。野生の直感で、彼らは自分個人の死の先にある、ずっとずっと遠い死を予知しながら、新しい道具を受け入れた。」(小川)

 

 

人間の喜びも哀しみも幸福も、悲劇もすべて、言語という異物が齎したということなのだ。

 

そういった哲学的想念だけではなく、研究にかかわるエピソードがそれぞれ刺激的な対話集である。オススメの一冊だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国語学習は古代日本へのタイムトラベルだ

外国語を学ぶことが昔から好きである。

 

ビジネス社会では、外国語学習と言えば、英語という時代が続いている。いきおい僕の外国語もほぼ100%英語だった。

 

しかし、何十年も学んでくると、言語の習得に対する限界効率が下がってくる。投下した時間に見合った習熟が得られるわけではなくなるのだ。

 

個人的にも、何も、ビジネスだけが外国語を学習する唯一の目的ではないということが、実感となってくる。

 

さらに、アメリカ一強時代の終焉が叫ばれはじめ、アメリカの有名投資家が、孫には中国語を覚えさせるというような発言に代表される、中国シフトも起こり始めた。

 

そんなこともあって、中国語をもう一度やってみようと思った。

 

当初は、NHKのらじるらじるというウェブサイトで、ラジオの中国語講座のストリーミングサービスを使って、キンドルで買ったテキストを読むという方法で始めた。



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https://www.nhk.or.jp/radio/player/?ch=r2&area=tokyo 

キンドルやストリーミングという新しい技術によって便利になったところも大きいが、これは長年、中華料理屋で中国語で話しかけられる度に都度再燃する、僕の過去の、多くの短命に終わった中国語学習熱の際に、試したやり方と、方法的には同一だった。

 

それを画期的に変えたのが、Duolingoという携帯用アプリだった。


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https://www.duolingo.com/

 

嫌になるほどの繰り返し練習がスマートフォン上で可能になる多言語学習アプリである。

語学学習というものが、いかに何度も、間違え、それを正すという反復練習をできるかにかかっているという、シンプルな原理をこのアプリが達成しているのである。

 

アプリの基本言語を日本語にした場合は、英語学習しか選択できないのだが、基本言語を英語にすると、無数の外国語の繰り返し学習が可能になるのである。

 

僕は英語で中国語を学ぶというアプリでの学習を継続している。

 

スマホさえあれば、空いた時間に好きなだけ、間違えることができるというのが、このアプリの画期的なところなのだが、今日はそれを話したいのではない。

僕は昔から、Talking, Listeningというよりは、Readingを外国語学習の根幹に据える、日本の翻訳文化の伝統の真ん中に位置している。外国語学習を読むということに据えてきたのである。先ほどのDuolinguoのおかげで、この偏った傾向にうまくバランスを与えることはできるようになるとは思うが、基本は、読めてナンボという気持ちは変わらない。

 

そこで、中国語の小説とか、中国語の新聞の読解を始めたのである。

 

ウェブ上で、中国語の新聞を広げて、じっと見て、最初に頭に浮かんだ言葉は、漢字の膨大な大海だった。

 

その言葉から、次に僕が連想したのは、古代日本で、荒波を乗り越えて、中国に留学した日本人たちが最初に漢字だらけの文書を開いた時の、茫然とした気持ちだった。

 

そうなのだ。

 

欧米の言語ではなく、中国語を学ぶということは、まさに自分たちの日本語という母語の起源をたどることなのだ。

 

なぜ日本人がカタカナ、平仮名を作り、今の日本語というものを作り上げてきたのか、作り上げなければならなかったのかという必然性のようなものが瞬時に理解できたのである。

 

中国語を読もうとすると、皆、膨大な漢字の海の中に投げ出される。そこに書き出されている漢字は、日本人が認識できる漢字の数をはるかに超えている。それは簡体字がわからないというような話ではない。見慣れた漢字を辿っていけば、ある一定のところまでの推測は成り立つものの、本気で解読しようとすると、かなり大変なのである。

 

じっと漢字の海を眺めていても、どの文字とどの文字がどうつながっていくのかが単純には判別できない。日本語のように漢字という塊がひらがなによる助詞によって切断され、その輪郭がハイライトされていくというようなわかりやすいものではないのだ。しかも漢字一語一語に固有の意味がある。

 

固有名詞的な濃い意味も、助詞的な薄い意味も、同じ一つの文字によって表象されるのである。

 

おそらく、最初に漢字文献に出会った日本人は、即座に、この言語をすべてそのまま習得し、輸入することの不可能に気づいたはずだ。

この膨大な漢字の大海から、いかに、逃れるかが、周辺漢字圏諸国の運命を形作ることになったのだろう。

 

漢字と、漢字文明圏の諸国の言語の変遷というのは、日本とは何かという、奥深い謎を解明するための、素晴らしいフィールドなのだということを痛感している。