サッカークラブは博物館
クーパー・シマンスキーの「世界最悪のビジネス」という文章はこんなぎょっとするような文章から始まる。
サッカーはビッグビジネスでもないし、いいビジネスでもない。それどころかビジネスですらない。
実際、サッカー人気というものは直接にサッカークラブ人気、サッカークラブの好調なビジネスにつながるわけではない。そのあたりは、応援しているクラブの今後を考えるうえでもとても重要な要素である。
最近は、この難しい環境の中でも我らがコンサドーレはさまざまなところで企業努力をしている。
その一例は、グッズビジネスのてこ入れである。
有名なデザイナー相澤陽介さんがコンサドーレのクリエイティブデザイナーに就任したことがその代表例だ。
https://www.gqjapan.jp/culture/sports/20190330/yosuke-aizawa-consadole-sapporo
イングランドのプロサッカーの世界でも、こういったグッズビジネスや公認スポンサーなどというビジネスモデルが発達したのは最近のことらしい。昔は、広告効果などというものが一切頭にないクラブ側はスポーツ用品の会社にレプリカユニフォームを作ってもらって、お金を払ってたぐらいだという。
そういう諸々の経営音痴の一翼をしっかりと担っている監督も、さほど真面目に決定されてるわけではなく、その時、暇で、仕事をしていない白人の元サッカー選手に声がかかることがほとんどだったという。今も、トップクラブを除いて、かなりの部分、当てはまるのではないか。
しかし、一流選手必ずしも一流選手ならずというのは、選手経験のほとんどないモウリーニョの実績をみれば、既に自明なのだが、サッカー界全般で見れば、そんなものらしいのだ。
監督に関する話で、この本の中に引用されている言葉で一番気に入っているのがACミランの黄金期の監督アリゴ・サッキのこんな言葉だ。
騎手になるために馬だった経験は必要ない。
こんなビジネスとしてはいたって心もとないサッカーだが、他に比べて本当にダメなビジネスかというと、単純にそうは言い切れない。
先ほどの90近いイングランドのプロクラブのうち半分近くが破産申請したことがあっても、廃部になるクラブは少なかったという歴史がそれを物語っている。プレミアでダメになるとチャンピオンリーグに降格し、コストを削減してやり直す、それがだめならリーグワンと、降格を繰り返すことで生き延びることができる。そしてやり直して昇格すれば、また資金もついてくることになる。廃部になっても、まったく同じメンツでスポンサーを変えて出直すことも多い。この降格、昇格というメカニズムは面白い。
実際、J2に降格した柏がまたネルシーニョの指揮下、猛然と、昇格レースを独走している。また昇格、即優勝的なことが起こりそうな勢いだ。
こんなやり方は他のビジネスでは成立しない。トヨタが業績が悪くなったので、給料の高い従業員の首を切って、能力の低い人間に入れ替えて、品質の悪いクルマで再生をはかるということなど考えられない。消費者が黙っていないからだ。しかしサッカーの場合は、この消費者がこの在り方を許容するのだ。
監督に代わって、クラブの金銭的命運を握るのがGMだ。ではGMにMBA出身の手堅い経営者を持ってくればうまく行くかというとどうもそうはいかないらしい。彼らが対峙して競争しなければならないライバルが一筋縄ではいかないからだ。
過剰な値段で選手を買わないように手堅い経営をしていても、裕福なオーナー企業や石油成金たちが、有無を言わさず、高値で才能を買い漁るとすれば、手堅く経営していても、うまくいくとは限らないのだろう。クラブを支えるファンベースも、手堅さを求めているわけではない。安定した業績を挙げているが、五年連続3位で、スター選手もいないというフランチャイズに対して、ブーイングこそすれ、称賛などはしないのだろう。
サッカーはやはり普通のビジネスではないのだろう。
だからこそ、収益を重視したやり方をするビジネスマンが経営すると、サッカーがだめになるだけでなく、ビジネスとしてもダメになる傾向もあるという皮肉な結果になってしまう。
とはいえ、マンチェスターユナイテッドのように上場もできるようなビジネスとしても成功している企業があるんだから、我がコンサドーレも、それをベンチマークにしたらどうかと考えたが、マンチェスターユナイテッドの成功はまさにマンチェスターユナイテッドだけに例外的に当てはまる当てはまるのだという一文によって現実に引き戻された。
その意味で収益と成果のバランスを、ものごとがよく分かったファンベースと、移籍市場でのマエストロ的才能たちが支えている、オリンピックリヨンというのは、ベンチマーキングの眼の付け所としては悪くないようだ。
オリンピックリヨンをベンチマーキングするのもいいけれど、本質的に、地域クラブを経営したり応援するものとしてのしっかりとした覚悟と諦念を促す、こんな文章を最後に引用しておきたい。
クラブはむしろ博物館のようなものだ。地域社会への奉仕を目的としながら、財政的にはそれなりに健全な公益団体のような形で生き残ればいい。控えめな目標に思えるが、これを達成できるクラブもほとんどない。
Bury FCの破綻を見ていても、代々のオーナーの不適切な財務処理などが、弱小クラブの財政を一気に危機に陥れてしまったのを見ると、この言葉の重みは大きい。
それにしてもBury FCの未来はどうなるのか。新生Bury FCを生み出そうとする力はそれがなくても、既に疲弊しているこの地域に残っているのだろうか。