21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

中国語学習は古代日本へのタイムトラベルだ

外国語を学ぶことが昔から好きである。

 

ビジネス社会では、外国語学習と言えば、英語という時代が続いている。いきおい僕の外国語もほぼ100%英語だった。

 

しかし、何十年も学んでくると、言語の習得に対する限界効率が下がってくる。投下した時間に見合った習熟が得られるわけではなくなるのだ。

 

個人的にも、何も、ビジネスだけが外国語を学習する唯一の目的ではないということが、実感となってくる。

 

さらに、アメリカ一強時代の終焉が叫ばれはじめ、アメリカの有名投資家が、孫には中国語を覚えさせるというような発言に代表される、中国シフトも起こり始めた。

 

そんなこともあって、中国語をもう一度やってみようと思った。

 

当初は、NHKのらじるらじるというウェブサイトで、ラジオの中国語講座のストリーミングサービスを使って、キンドルで買ったテキストを読むという方法で始めた。



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https://www.nhk.or.jp/radio/player/?ch=r2&area=tokyo 

キンドルやストリーミングという新しい技術によって便利になったところも大きいが、これは長年、中華料理屋で中国語で話しかけられる度に都度再燃する、僕の過去の、多くの短命に終わった中国語学習熱の際に、試したやり方と、方法的には同一だった。

 

それを画期的に変えたのが、Duolingoという携帯用アプリだった。


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https://www.duolingo.com/

 

嫌になるほどの繰り返し練習がスマートフォン上で可能になる多言語学習アプリである。

語学学習というものが、いかに何度も、間違え、それを正すという反復練習をできるかにかかっているという、シンプルな原理をこのアプリが達成しているのである。

 

アプリの基本言語を日本語にした場合は、英語学習しか選択できないのだが、基本言語を英語にすると、無数の外国語の繰り返し学習が可能になるのである。

 

僕は英語で中国語を学ぶというアプリでの学習を継続している。

 

スマホさえあれば、空いた時間に好きなだけ、間違えることができるというのが、このアプリの画期的なところなのだが、今日はそれを話したいのではない。

僕は昔から、Talking, Listeningというよりは、Readingを外国語学習の根幹に据える、日本の翻訳文化の伝統の真ん中に位置している。外国語学習を読むということに据えてきたのである。先ほどのDuolinguoのおかげで、この偏った傾向にうまくバランスを与えることはできるようになるとは思うが、基本は、読めてナンボという気持ちは変わらない。

 

そこで、中国語の小説とか、中国語の新聞の読解を始めたのである。

 

ウェブ上で、中国語の新聞を広げて、じっと見て、最初に頭に浮かんだ言葉は、漢字の膨大な大海だった。

 

その言葉から、次に僕が連想したのは、古代日本で、荒波を乗り越えて、中国に留学した日本人たちが最初に漢字だらけの文書を開いた時の、茫然とした気持ちだった。

 

そうなのだ。

 

欧米の言語ではなく、中国語を学ぶということは、まさに自分たちの日本語という母語の起源をたどることなのだ。

 

なぜ日本人がカタカナ、平仮名を作り、今の日本語というものを作り上げてきたのか、作り上げなければならなかったのかという必然性のようなものが瞬時に理解できたのである。

 

中国語を読もうとすると、皆、膨大な漢字の海の中に投げ出される。そこに書き出されている漢字は、日本人が認識できる漢字の数をはるかに超えている。それは簡体字がわからないというような話ではない。見慣れた漢字を辿っていけば、ある一定のところまでの推測は成り立つものの、本気で解読しようとすると、かなり大変なのである。

 

じっと漢字の海を眺めていても、どの文字とどの文字がどうつながっていくのかが単純には判別できない。日本語のように漢字という塊がひらがなによる助詞によって切断され、その輪郭がハイライトされていくというようなわかりやすいものではないのだ。しかも漢字一語一語に固有の意味がある。

 

固有名詞的な濃い意味も、助詞的な薄い意味も、同じ一つの文字によって表象されるのである。

 

おそらく、最初に漢字文献に出会った日本人は、即座に、この言語をすべてそのまま習得し、輸入することの不可能に気づいたはずだ。

この膨大な漢字の大海から、いかに、逃れるかが、周辺漢字圏諸国の運命を形作ることになったのだろう。

 

漢字と、漢字文明圏の諸国の言語の変遷というのは、日本とは何かという、奥深い謎を解明するための、素晴らしいフィールドなのだということを痛感している。