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僕のデジタルな「騎士団長殺し」の日々

2019年8月10日(土)


散歩の途中で、iPhoneで聴きさしの騎士団長殺しを、聴き始めると、なぜか、主人公の画家が、絵画スクールの女性たちとの不倫の場面が多かった。

 

村上ではないが、「やれやれ」と思ってしまう。

 

Killing Commendatore

小説を読むとき取り立てて、性愛のシーンが好きなわけではなく、むしろ嫌いな方だからだ

 

しかも不倫となると、倫理的にではなく、気質的に不倫的なものを商売にするという風潮が嫌いなので、嫌いだ。とことん素直ではない。

 

性愛や不倫自体が好きか嫌いかということについては、ノーコメントとしておく。

 

にもかかわらず、明治通りから高田馬場の方へ向かう同じような露地でなんどもそういうシーンを聴くことになった。まあこれは僕の散歩道が案外固定しているから当然なのかもしれない。

 

やれやれ。

 

こんな風に、村上春樹を読んだこと、正確には聴いたことは初めてである。

 

1979年の「風の歌を聴け」をほぼリアルタイムで読んで以来、発表されるごとに、ほぼ全作品をまたたくまに読み終わるというのが、僕にとっての村上春樹だった。

 

作品に対する想いには濃淡はあるものの、じっくりと読むというよりは、一気に読み終えて、安心するという読み方だった。

 

人生をプールに喩えて、35歳を折り返し地点としている文章に出会って、ほぼ自分の人生の指針のように考えてしまっていた時期もある。その後、40歳に折り返し地点をずらす文章を見つけ、少々裏切られたような気がしたのも鮮明に記憶に残っている。

 

その後も、ハードカバーが出る時点で読むという時代が十数年続き、その後は、文庫本を待つというようなことになったような気がする。

 

その中で「ねじまき鳥」だけは一気に読めなかった。それどころか、結局、読み通すこともできなかった。これには何か明らかな理由があるはずなので、またそのうち試してみようと思っている。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

 

騎士団長殺しは、これまでと全く違う読み方をした。

 

2017年に発売された時には、見向きもしなかった。

 

問題は村上春樹ではなく、ハードカバーという形態だった。電子書籍シフトをして以来、よほどのことがない限り、ハードカバーを買うことはなくなった。

 

すぐに検索してみたが、当然、電子書籍化などされていなかった。そこでいったあきらめることにした。

 

その後2018年に入って英訳が完成した。期待をもって検索すると当然、電子書籍版が見つかったので購入して、英語版から読み始めた。

 

これは、僕の村上春樹史上初の事態だった。日本語ではなく、英訳から読み始めるなんて。

 

僕の初体験はこれで終わらなかった。そのころ僕の、英語による読書体験のフォーマットも大幅に変わっていたからである。

 

気に入っているTim Ferrisのロングインタビューの中で、名前は忘れたが、若いビジョナリーが最近は紙の本ではなくオーディオ版で読むことが多くなったと言ってたのに刺戟を受けて、そのころには、Audibleで英語本を買って聴くという習慣をつけようとしはじめていたからだ。


Kevin Systrom — Tactics, Books, and the Path to a Billion Users | The Tim Ferriss Show

 

Audibleを検索してみると、騎士団長殺し Killing Commendatoreのオーディオ版が入手可能になっている。そこで早速購入し、挟み撃ちのような読書が始まった。

 

 

英訳の村上春樹は、さすがに、根幹のロジックのところが日本語なのか、他にトライしている英語の小説に比べればはるかにわかりやすかった。

 

短いAudible経験だが、ノンフィクションの方がフィクションよりはわかりやすいし、当然ながら、オリジナルが日本語である英訳版はかなりわかりやすい。

 

一番わかりにくいのは、アメリカ人やイギリス人が書いた純文学だ。(笑)

 

純文学の定義の中に、「他人にわからないように書く」というのがあるような気もするから、これは当然かもしれない。

 

こうやって高田馬場の露地でなんどか画家の不倫を聴いたり、神田川沿いで、騎士団長と画家の不思議な遭遇の場面を聴いたりしながら、1年がかりで読了(聴了)した。理解度で言えば、たぶん60%ぐらい。特に繊細な部分は今一つわからなかった。でも大きな物語の流れに感動するには十分な体験だった。

 

2019年になって文庫版が発売された。分冊が出る都度買って、読み終えた。もやもやした部分が明確にわかってスッキリしたというのとはちょっと違う感じだ。

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

英語と日本語では、どうも村上春樹体験はまったく別のものだということがわかった。どう違うのかということを正確に語れるほど言語化されてはいない。

 

休日にデパックに文庫を入れて、散歩しながら、英語版のオーディオを再聴したり、小休止先のスタバで、文庫を読んだりというのが続いた。

 

結局、2年がかりで英語の電子版から始まった僕の「騎士団長殺し」体験は、文庫版の読了を持って一回転した。ただ、この一回転の中には、電子書籍やオーディオ本ならではの、再読、再聴という無数の小回転が含まれている。

 

その意味では、本屋に並ぶのを待ちかねて購入し、家に帰ってその日のうちに読了し、本棚に片づけるという一直線のスリリング(?)さはないが、いったりきたりする、まったりとした読書体験を楽しむことができた。

 

これはなかなかに贅沢な時間だった。他の村上春樹作品でも同じようなことを試してみようかとか、覚えたいと思っている外国語でこの挟み撃ちをやってみようかとかいろいろな派生的関心が生まれてきた。今は中国語版の騎士団長殺しの読破を密かに目論んでいる。

 

 

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今気づいたのだが、騎士団長殺しの内容については全く書いていない。まあ、書きたかったのはそこのところではないし、たぶん無数の読者がそのことは書いているはずだから、今日のところはやめておくことにする。