不幸な連中からは逃げるが勝ち!(アラン 「幸福論」)
そこそこ、長く、生きていると、良き哲学というものは実は、良い処世訓であることがわかってくる。
しかも、この良き哲学の世界と自然科学では、「進歩」というものに対する姿勢がかなり違っているようなのだ。
僕も、世界も、この進歩というものを自明なものと考えて生きてきた。それは否定のできない事実である。
世界の方は、常に、当事者が入れ替われるので、この進歩という哲学的/宗教的な御託を後世の人に信じさせることに成功する限りは、この前提もなかなか崩れることはない。
ネズミ講のようなもので、新しい人が見つけられる限り、それが詐欺であることはバレないのである。
個人は残念ながらだんだん老いてくる。
そうとうおめでたい人間でもない限り、自分がかつて信じたことに裏切られるということが増えてくるのが普通なので、進歩と言われても、素朴には信じなくなってくる。
古代エジプトの遺跡の中の「最近の若い奴らの文章はなってない」という類の話同様、この人生哲学の分野には、さほど目立った進歩などないのかもしれないと感じるようになってきた。
こうなって初めて昔学校の先生方が口をそろえて古典を読めといったことの意味がわかってくる。
結局は、時代の風雪に耐えて生き残った言葉の重みなのだ。
頭の中を処世訓で満載にして生きて来たわけではないが、さすがに、一種の人生の指針のようなものがぼくにもある。
「不幸な人には気をつけろ。自分が幸福じゃない人は、他人を幸福にしようなどとは思わないからだ。」
可愛らしい女優のダンスだけでなく、最近の人気テレビドラマの、逃げることは恥ずかしくないというメッセージは、かくのごとく、僕の心に深く刺さってくるものだったのである。
この処世訓は、実は、ずっと、出典不詳だった。まじめな戦後派リベリストだった両親からの一子相伝だったような気もするし、転校を繰り返して、定期的に、そこそこの修羅場をくぐるなかで会得した路上の知恵(Street-smart)のような気もする。
しかし喧嘩上等で人生を組み立てて来たようなタイプでもなく、人間との絡み合いよりは、ひとりで本を読むほうが好きだったわけで、どこかで、こんな暗黙知を、言語化してくれる本があったに違いないと思った。
しばらくぶりにアランの幸福論を読み直している。かなり繰り返し読んだ本だが、ここ数十年はめっきりご無沙汰だった。
最初のページから行くと、名馬が暴れる理由が、自分の影に怯えているのだと、アレクサンダー大王が一発で見抜くという、ほぼ、暗記しているようなエピソードばかりになるので、今回は後ろの方から読んでいる。
すると、最後から2番目の「幸福にならねばならない」のこんなフレーズが目に入った。
「幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。」
世の中には、幸福というものが、外からやってくるものだと待っている人が多いというのがアランの見立てである。そしてこういう人たちに限って、幸福を商品のように値踏みするので、そんな彼らの表情はすぐに、倦怠や軽蔑で一杯になってしまう。そしてこういうひとたちは、「子どもが庭をつくるように、つまらぬもので幸福をつくり出す器用な職人たちに対するいらだちと怒り」があるのだと。こういう人たちは度し難い。だから逃げるしかないんだというのがアランのスタンスである。
「自分自身に退屈している人たちをなぐさめることはできない。そのことを、ぼくは経験からよく知っているからである。」
自ら幸福になろうとせずに、幸福になることを望む人々が向ける、自分で幸福になった人の悪意から断固逃げることをススメルのみならず、こういう世の中に対して、高らかに告げるのである。
「幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。これはあまり人の気づいていないことである。人から愛されるのは幸福な人間である(略)」
科学技術がいくら進歩しても、人間の条件の根幹は不変であるという考えを保守主義と呼ぶのならば、ぼくは保守主義である。
ネット技術が生み出したのは、アランのほぼ100年前(正確には94年前)の見立てを、ネットワーク/ハードウェア/ソフトウェア上で、増幅した姿に過ぎない。
人前で大きな声で主張する気はないが、自分の家族、友人にはこっそり伝えたいのが、繰り返しになるが、「不幸な人間からはとにかく逃げろ」である。これは理屈ではなく、まさに血と汗と涙で培った処世訓なのである。まわりを気にしてはいけない。近づく人間の表情にこういった悪意の影が少しでも見えたら、とにかく、逃げて逃げて逃げまくることである。失うものなど心配してはいけない。とにかく逃げのびることが重要なのだ。
こういった幸福になろうとしない人の悪意を甘く見てはいけない。彼らは、結構、長い距離を追いかけてくるものなのだ。それほど彼らは自分の人生にウンザリしているのだ。幸福そうにしている誰かに難癖をつけて、自分と同じ不幸に引きずり込むことだけに暗い熱情を注ぐ人たち、どう考えても、逃げるしかないじゃないか。
学生の頃、新入社員の頃、中堅社員の頃と、対人関係で嫌な思いをした後に、独りぼっちで、アランを読んで、思わず、膝を打ち、少しだけ、気分を紛らわせた夜もあったはずなのだ。そんなこんなで、いまだに生き延びているのだから、かなり賞味期限の長い処世訓なのだろう。
誰かに伝えておくべきなのは、多分、こういうことなのだろう。
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