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朝日に匂うやまざくら花 (水上勉 「櫻守」、勝木俊雄「桜」)

今年の東京の初春は、桜にとっては、多少、気の毒だったかもしれない。

 

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桜からすれば、いつものように、三寒四温の、気まぐれな、春など、慣れっこかもしれない。気の毒だったのは、花の下で一献傾けたい花見客だけとも言えないことはない。

 

しかしどうして、僕たちは、こんなに桜が、好きなんだろう。毎年毎年、桜の訪れを待ちわびて、その束の間の色彩の饗宴をその短さの故に繰り返し、繰り返し、愛惜する。

 

東京の住人にとっては、桜といえば、染井吉野である。一斉に咲いて薄桃色のベールで街中を覆いつくし、また一斉に散るというそのケレンを愛してやまない人々がこの街には多い。

 

しかし染井吉野だけが桜ではない。

 

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岩波新書の勝木俊雄の「桜」によれば、日本に分布しているサクラ類の種は、ヤマザクラオオシマザクラ、カスミザクラ、オオヤマザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、チョウジザクラ、エドヒガン、ミヤマザクラカンヒザクラがあるという。

 

じゃあ染井吉野はということになるが、そもそも、江戸時代までは、京都や江戸では、桜といえばヤマザクラだったという。

 

本居宣長も「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」と歌ったぐらいである。

 

先の「桜」によれば、染井吉野は、江戸時代末に江戸の染井村(巣鴨のあたり)の植木屋が「吉野桜」というブランド名で売り出した栽培植物であり、本格的に、全国に拡大したのは、御一新後の新政府によるものだったという。

 

今も、染井吉野が一斉に散ったあとも、ポツンポツンと、ヤマザクラの花を街で見かけるが、樹々すべてが一つの生命体のようにみえる染井吉野の薄桃色のベールに比べると、良くも悪くも、その花にも葉にも、なんとも言えぬ野趣が漂っている。染井吉野のケレンに慣れ親しんだ眼には、どこか野暮ったく見えるのも事実だ。

 

新政府の肝いりもあって、成育速度が速く、病気にも強い、染井吉野が国中の公共施設の近くに広められ、現在の日本人の花見風景を形作っていった。

 

染井吉野’が広まった時代は地方分権であった幕藩体制が終わり、東京を首都とする中央集権の国家体制が確立していく時期にあたる。‘染井吉野’は植栽に広い空間が必要であることから、学校や神社、公道など公の場所に植栽されることが多い。そうした公の場所に相応しい樹木として、首都である東京生まれの樹木が選択されることは容易に想像される。(勝木俊雄)

 

その反動で、東京への対抗意識の強い京都や大阪では、染井吉野が少ないとか。

 

染井吉野の大きな特徴のひとつは、接木によって増殖され、すべての個体が同じ遺伝子を持つクローンということである。接木とは、増殖した親木から穂木と呼ばれる枝を採り、台木となる木につなぎ合わせて成長させる手法である。したがって、接木によって増殖された新しい個体は、接いだ部分から下側の根の部分は親木と異なるが、接いだ部分から上部は親木とは変わらない形質をもつ。また、発根性が強い種類では、接いだ上部から発根して、やがて根の部分もすっかり置き換わる場合もある。こうなると親木と遺伝的にまったく同じ個体ができあがることになる。

 

数多く植えられた‘染井吉野’が同じ形態をもつ花をつけ、同じタイミングで一斉に咲いて一斉に散るという特徴は、クローンだからこそのものである。江戸時代まで花見の対象であったヤマザクラはふつう種子から増殖される。そのため、人間と同じように一本ごとに顔かたちがちょっとずつ異なる。遺伝的多様性をもつ野生集団のサクラは、花の大きさや色合い、若芽の色、咲く時期などが個体ごとに異なる。したがって、種子で増殖したサクラを数多く植えた場合、‘染井吉野“のように一斉に咲くことはない。ただ、これは種子で増殖したからである。ヤマザクラオオシマザクラであっても、接木や挿木で増殖したものをまとめて植えると’染井吉野‘のように一斉に咲いて一斉に散ることになる。(勝木俊雄)

 

この染井吉野のケレンや、「政治性」を嫌い、全財産を使って、兵庫県の武田尾の地で、多くの桜を守り育てた笹部新太郎という人がいる。

 

この人をモデルに、水上勉が「櫻守」という美しい小説を書いた。戦中、戦後の、笹部氏がモデルの竹部庸太郎の桜への愛情を、一心に支えた職人弥吉の人生が描かれている。この小説の中にこんな一節がある。

 

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小野甚にいた時、京でよくみた白い花だけの染井吉野が弥吉には美しく見えて、また、その種の桜が、植かえもよくきいたので、苗圃から庭へこの種を重宝して運んだ。竹部にきいてみると、これは日本の桜でも、いちばん堕落した品種で、こんな花は、昔の人はみなかったという。本当の日本の桜というものは、花だけのものではなくて、朱のさした淡みどりの葉とともに咲く山桜、里桜が最高だった。染井吉野は、江戸時代の末期から、東京を中心にして、埼玉県の安行などもふくめて、関東一円に普及し、全国にはびこるにいたった。育ちも早くて、植付けもかんたんにゆく。竹部にいわせると足袋会社の足袋みたいなもので、苗木の寸法、数量をいえば、立ちどころに手に入る品だ。値段も安くて、病虫害にもつよい。山桜や里桜では薬害の可能性もある駆除薬剤のどんな刺戟のつよいものにも染井は耐える。桜の管理にあたる者のなにより喜んで迎えるのも当然であったろう。

 

堕落した品種と、いたって厳しい竹部の言葉だが、確かに、時間に追われて、走り回る、自分も含めた今時の花見客の行動様式に阿っていると言えないことはない。あまりに計算されたスペクタルにはまっているともいえる。

 

 

「まあ、植樹運動などで、役人さんが員数だけ植えて、責任をまぬがれるにはもってこいの品種といえます」

 

と竹部は染井をけなした。

 

「だいいち、あれは、花ばっかりで気品に欠けますかわ。ま、山桜が正絹やとすると、染井はスフというとこですな。土手に植えて、早うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都合のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」

 

竹部は、このエドヒガンとオオシマザクラの交配によって普及した植樹用の染井の氾濫を、古来の山桜や里桜の退化に結びつけて心配しているのであった。(水上勉

 

ほっておくと、つるだらけのジャングルになってしまう日本の山を、寡黙な木挽きたちが守ってきた。自然の花の美しさというようなものはない。人間が愛せるのは、人間が手塩にかけたものだけなのである。植樹することで自分の仕事が終わる役人たちの通り過ぎたあと、日本の桜の美しさを黙々と守り続けた人がいた。

 

桜を楽しむということは、そういう過去の上に立っているのだという思いで、名残のヤマザクラを眺めてみる。

 

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