21世紀ラジオ (Radio@21)

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ジャーナリズム、その可能性の中心(後藤正治 「天人 深代惇郎と新聞の時代」)

2017年4月7日(金)21℃ 雨のち曇り 110.520¥/$

 

妻が心底驚いたという、私の父親の言葉がある。

 

私の母に対して言った、「産んでくれてありがとう」。

 

これは、企業人として私が成功したとか、その類の晴れがましい時ではなかったから尚更だったらしい。筋金入りの親馬鹿に妻は逆に感心すると笑った。

 

当時、私は、大企業での普通の勤め人から少々外れた生活を始めていた。もともとの仕事すら、両親がよく理解していたわけでもないから、そこからの逸脱についても、親としての漠然とした不安を除けば、さほど関心もなかったはずだ。「一家仲良く食べていけさえすればいい」というのが母親の口癖だった。

 

当時、知人に勧められて、いくつかの雑誌に文章を載せるようになっていた。

 

 私の父親は、当時は「世界」を購読しているだけで、警察から目を付けられるような時代だったとうそぶくような筋金入りの戦後派リベラリストだった。

 

再び教え子を戦争に送らないという強い情熱に支えられた地方の教師、校長というキャリアを経る中で培われた「威張る連中」に対する反骨心を、幼い私にも一切隠すことがなかった。

 

その後の進学、職業選択ということに関しては、本人の意思を尊重するという建前を貫きはしたまのの、その裏側から迸る、彼の明らかな好き嫌いがあった。父親が早くに亡くなったため、大家族の生活がすべて長男である彼の双肩にのしかかった。心の中の多くの選択肢を捨てて、彼は教員という道を選んだ。捨てたものの中に、ジャーナリズムというものへの尽きぬ憧れがあった。

 

好き嫌いの発露の仕方も、屈折していて、自分の希望を押しつけるというようなことは全くなかった。

 

ただ記憶に残っているのは、医者はどうかなという私に、露骨に嫌な顔をしたことだ。

 

当然ながら医学というものへの嫌悪を抱いていたわけではない。彼の仕事の現実が、そうさせたのだ。多くの地域で、出会った、土地の小ボスとしての医者というものとの軋轢がその背景にはあったのだろう。

当の息子の方も、さほど、やりたいことがあったわけでもなく、成り行きで大学に入り、成り行きで資本主義のど真ん中の企業へと入社した。

 

私は、時代の趨勢と平仄を合わせて、父親の担った戦後的リベラリズムから資本主義的な論理の方へと足を踏み入れた。読むものが朝日や朝日ジャーナルから日経、ニューヨークタイムスからウォールストリートジャーナルに変わっていったというような。

 

力関係の変化や、親の側の穏やかな諦めもあってか、、父子関係も、いたって普通の平穏そのものだった。

 

その後、どちらかと言えば、リベラル系の週刊誌に1年ばかり連載をすることになった。

 

第一回目が載っている雑誌を、父親に手渡した。 さほど父親に興味のあるような内容ではなかったはずだが、父親の顔がパッと輝いたのだ。

 

私の妻を驚かせた発言はこの時のものだ。

 

何も言わなかったが、「資本主義の走狗」と成り果てた息子には、若干とはいえ、忸怩たるものがあったのだろう。このバランスを失した喜びようを思い出すと、少々複雑な気持ちになる。

 

とはいえ、紆余曲折はあったけれど、父親の希望を、少しだけ叶えることができたようなのだ。元気な孫たちの成長を身近に見せられたということを除けば、これが最大の親孝行だったのだろう。戦後ジャーナリズムの中で、朝日や岩波というのはそれほど輝いていたブランドだったのだ。

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『文章は滑らかにして自在である。難しいことをわかりやすく伝えていく。曖昧さがない。書き出しから一気に話題が転換することがしばしばあって、結語はまず予測できない。構成に定まった形というものがない。古今東西の、政治、社会、文化、歴史…への造詣と見識の深さはおのずと伝わってくるが、あくまで自分のアタマでモノを考え、言葉を紡ぎ出している。文体は抑制が利いていて、ウィットに富んでいる。そして、文の背後に、血の通った一人の人間が立っている――。』(後藤正治)

 

後藤正治が、夭逝した名コラムニストの深代惇郎について語った言葉である。

 

資本主義に頭から呑み込まれる過程で、いつしか、「事実」というものに引きずられて、「真実」というものから遠ざかっていた時期がある。しかし真実というものは、事実に、人々の心の奥底にある情念の迸りを加えることでしか明らかにならないものなのである。

 

戦後リベラリズムの黄金時代についての郷愁であり、かつ、朝日、読売、産経など当時の主要新聞社が擁した名記者、コラムニストたちの評伝であり、かつ、彼らの名文の詞華集のような「天人 深代惇郎と新聞の時代」を一気に読んだ。

 

あらゆるページに、時代の匂いと、その時々に、自分が感じた記者たちへの憧れのような気持ちが蘇ってくる。

 

深代惇郎は2年9か月という短い期間、毎日、天声人語という800字を書き続けることで、その生命のすべてを燃やし尽くした。

 

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深代惇郎の天声人語 (朝日文庫) | 深代惇郎 |本 | 通販 | Amazon



毎日何かを書き続けるということだけでも大変なことである。それを彼の水準で継続したということの壮絶さを痛感する。

 

そして天は、この天人を1975年12月17日午前3時にせっかちに回収することになる。

46歳。死因は、急性骨髄性白血病

 

『コラムニスト・深代惇郎にあった特徴のひとつは目線の低さである。権力や権威というものに伏する志向はまるでなかったし、地位や肩書きというもので人を見ることもなかった。好悪の念を表に出すこともめったになかったが、独りよがりの高慢さは嫌った。それは生来の気質であり、自身の歩みのなかで身につけていったものであろうが、下町に身を置いて過ごした歳月が自然と培ったものもあるのかもしれない。

 

 深代を言い表すものとして、リベラリストと言う言葉を使っても差支えあるまい。リベラルの原意「個人として自立した自由の民」という意においてである。それを養ったものは

<教養>と<時代>であったろうが、ここにもまた<故郷>がかかわってあるように思えるのである。』(後藤)

 

自らもリベラリストであった亡父を、あれほどに感動させたのは、この戦後リベラリズムの最良の部分を代表した、これら一団のジャーナリストたちの傍にほんの少しでも自分の息子が近づいたという想いだったのかもしれない。

 

その後、文章を私が書き続けたわけでもなく、ほんの少しだけ親孝行の真似事ができただけである。しかし、父親が亡くなって10数年経ち、父親の笑顔がなぜか鮮明によみがえってくる。

 

折しも、戦後を支えた既存ジャーナリズムが、大きな転機を迎えている今こそ、戦後ジャーナリズムというものを「可能性の中心」としてとらえ直す必要があるのかもしれない。

 

最後に、後藤さんが引用している深代惇郎天声人語の中で、どうしても転載しておきたい一文があった。深代さんが亡くなる3か月前に書いたものだ。

 

『夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった▼美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに、日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく▼私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊りつかれた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった▼もう一つ、夕焼けのことで忘れれがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者Vフランクルの本「夜と霧」(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない▼囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え挙げる美しい雲」がある▼みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語り掛けるという光景が描かれている。』(1975(昭和50)年9月16日)