思想は事物の中にしかない(春日武彦 幸福論)
2017年3月29日(水)15℃ くもり時々晴
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「あまり先のことは知りたがらず、足下のことだけを考える方がよい。」
(アラン)
古いノート(僕の場合はブログ)を眺めていたら、10年近く前に読んだ、精神科医の春日武彦さんの「幸福論」(講談社現代社新書)からのこんな抜き書きがあった。
何年たっても、自分とは何か、どう生きていけばいいのかを考えているようだ。これは時が経てば、解決するというものではないのだ。なぜならそれが自分の存在の意味だからなのだろう。
不幸を「退屈さと不全感がまじりあった感情」と定義して、この漠然とした感情、不安を、自分の周りにあるモノに対して具体的、個別的な関心を向けるという方法で、その不幸感に対応していくというのが春日さんの考えだった。
小児科医で、全米第一の詩人であるウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩を引用しながら、こんな風に語る。
『塀のあいだ(片桐ユズル・中山容訳)
病院の
裏の出っぱり
では
何も
生えないが
灰
のなかで光る
こわれた
みどりのビン
のかけら
ウィリアムズのように、きちんとした市民として日常を送りつつ、散歩者のような視線で「No ideas but in things」(思想は事物の中にしかない)を実践すればよいのだと思った。
(中略)
世界を能天気に肯定するわけでもなければ、テロリストのように憎悪するわけでもなく、もっとさりげなく世界と折り合いをつける方法はある筈なのである。それを探し求め、遂行していくところに幸福は立ち現れるだろう。ただし百パーセントの幸福などあり得ない。幸福は常に断片として現れる。ほのめかしとして現れる。点が三つ、逆三角形の配列で打たれていればそれを見た者は必ず顔を認知するという。その「三つの点」に相当するものを見出し、幸福な表情を発見しながら、我々は日常を生きていくのである。』
こんな本を読んだことすら忘れかけていた。
街角を歩きながら、遍在する事物を媒介として、幸福の断片を日々積み上げるという振舞いの中から幸福感が生まれる。いつか役に立つはずと、記憶の頭陀袋の中に放り込んでおいたこんな言葉によって今日もまた幸福に生きられるような気がする。