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教育勅語の意味(片山杜秀・島薗進 近代天皇論 -「神聖」か、「象徴」か)

2017年3月22日(水)14℃ 曇り後晴れ

 

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僕たちは、日本の戦後社会というものに安心しすぎていたのかもしれない。対米戦争における無条件降伏による敗戦の中、父親の世代が、国家消滅の危機にさらされた中で、再び戦争の惨禍に見舞われることのないようにということで、国民の血の中に揺らぐことのない平和主義が確立されたのだと。

 

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しかし与党議員のかなりの部分が、明治憲法時代への回帰を真剣に考える「日本会議」というようなアナクロ組織の会員となっている現状の中、国防を司どる大臣が、その親玉と同じような「軽い言葉」で教育勅語の価値のようなものを口先で弄ぶ時代になってしまった。

 

日本会議アナクロという形容詞で表現すること自体、自分の現状へのリアリティのなさを露呈してしまっていることを反省すべきかもしれない。

 

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戦争に行った父親の世代の、息子や孫を戦場に送らないためにという烈しい危機意識を再び思い起こさざるを得なくなっているようだ。

 

まず、言葉とその中に内在する歴史を一つ一つ確認する作業からはじめなければならない。

 

片山杜秀島薗進という一流の政治学者と宗教学者の対談「近代天皇論―「神聖」か「象徴」か、は、軽い言葉を弄ぶものたちによって捏造される歴史のもたらしうる災厄を回避しようと考えるすべての人にとっての必読文献だ。

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日本の民主主義が、国家権力を宗教的な価値観と結びつけ、明治憲法へと回帰することをよしとする宗教ナショナリズムによって危機に瀕しているという強い問題意識が二人の対談者には満ちている。

 

明治維新に始まる近代日本の歴史は、まず西欧列強に対する危機意識があった。

 

その切迫した状況の中で、相矛盾する王政復古と文明開化が掲げられた。過去や伝統志向と、西洋文明化の共存である。

 

生き残るためには、早急に国民国家を作り上げなければならない。

 

片山

『しかし西欧のように、じっくりと国民国家を作り上げる時間はありません。啓蒙思想の伝統もない。対等の人間同士が契約して国家をつくって同じ国の国民になって義務も果たすが権利も求める。たとえばそんな共和国の思想を根づかせる素地もこの国にはない。それでも近代国家らしいものを急造しなければならない。使えそうな手は「天皇と臣民」というかたちだけだった。』

 

国民からの国民国家への忠誠を作り上げる手段として国家神道が利用された。

 

しかし近代国家という建前上、西欧の常識にならえば、信教の自由を認める必要がある。そこで、実質的には国定宗教を目指す国家神道は、宗教ではないという巧妙な理屈を作り上げた。対外的な建前と、国内的実情のバランスをとったのだという。

 

 

島薗

「近代国家は、西欧の常識にならって、信教の自由を認めなければならない。だから日本も、信教の自由を認めたことにして、「政教分離」を制度化するという体裁は整えた。しかし同時に、国家神道を「非宗教」とすることで、国家神道の持ち場である「祭祀」や「治教」、つまり納められる臣民への教えは国家が担うことができるような制度設計をしたのです。」

 

既存の宗教組織等を使って、人々の国民国家への忠誠を急造する試みは失敗した。その時に、教育という場が、総力戦を実行するために不可欠な国民意識を醸成する場として選択されることになった。

 

そして近代的国民国家における国民意識の醸成が困難と考えた、明治の制度設計者は、神聖天皇と臣民という形で、人々を取り込みやすいイデオロギーを作り上げようとしたのである。

 

そのイデオロギーの象徴が1890年の教育勅語なのである。

 

 

島薗

『「教育勅語」の文意には国家神道に直結しない要素も含まれています。しかし同時に、「教育勅語」が発布されたあとは、学校での行事や集会を通じて天皇崇敬を促す神聖な文書として国民自身の思想や生活に強く組み込まれていったのも事実です。

 

1870年代の半ばから1880年代にかけて、宗教集団を通じての国民教化が行き詰まりを見せます。それとタイミングを合わせるかのように、学校で、天皇中心の「教」に従う教育を取り入れなくてはならないという声が高まってくるのです。

 

それを具体化したのが1890年の「教育勅語」だというのが私の見方です。』

 

総力戦を実行できるための国民を急ぎ作り上げるために、教育システムが総動員された。そして天皇のために死ぬ臣民の再生産システムが暴走を始めたのだ。確信犯的に天皇制を利用しようとした、元老たちが一人一人この世を去る中で、政治の現場からリアリズムが消えていった。そして軍という自らの頭で考えることを止めた官僚主義が日本社会を破滅へと引きずっていったのである。確信犯ではなく、日常的、官僚的思考停止による暴走である。

 

エルサレムアイヒマンアレントが描いた、部品と化した凡庸な役人たちが引き起こす地獄が想起される。

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島薗

国家神道や国体論が昭和維新のようなテロや暗殺を生みだしたり、第二次世界大戦の理性を欠いた精神主義をもたらすほどの影響力をもつことを、明治国家を作り上げた元勲や元老たちは予想しなかったはずです。彼らは、天皇崇敬をうまく利用することで安定した支配体制ができると考えたわけですから。

 

しかし元老は、自分たちがいなくなる状況には想像が及ばなかったのでしょうね。元老政治ができなくなる大正、昭和になると、統治システムが機能不全になると同時に、「教育勅語」で育った民衆の宗教ナショナリズムを軍やメディアが増幅し、国家が振り回されるようになってしまった。』


不思議な時代である。神聖天皇から象徴天皇への移行を自らの責務と考える今上天皇がもっとも、この時代の危険を感じられているというアイロニー

 

伝統回帰をはかる右派が、天皇の「お言葉」に反発している。そして本来不倶戴天の敵であるはずのリベラル左派が、天皇を唯一の心の支えとしているというこの捩じれを僕たちはじっくりと直視しなければならない。

 

歴史というのは、現代的問題意識によって何度も読み替えられていくものである。その読み替えの方向をめぐる戦いが始まっている。その意味で歴史をめぐる論争というのは、僕たちの未来を賭けた戦いなのである。