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黄禍論ではなくラッダイト?(トランプVs経済学)

2017年3月16日(木)14℃ 晴れのち曇り

 

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トランプ大統領は、自分の中核を占める支持者層である、米国が競争力を失った伝統的製造業が集中する地域に住む、低学歴、白人労働者層に雇用を生み出さなければならない。それも早急かつ目に見える形で。

 

そのために企業を直接に恫喝して、特定地域に雇用を「移動」させるという荒業を繰り返すと同時に、上記の労働者層の職を奪ったとして、メキシコ、中国などの外国を敵視する発言を繰り返している。

 

彼の主張が正しいかどうかは別として、実際、トランプは本当に彼の公約を実現できるのだろうか。

 

トランプ対経済学の戦いは続く。

 

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経済学は、トランプ大統領の思い付きによっては、本当に彼の支持者たちに雇用を取り戻すことはできないと一様にすげない。

 

 

trailblazing.hatenablog.com

 

さらに彼らの雇用は、供給面で、海外からの挑戦を受けているというよりは、需要者である米国企業から求められなくなってきているという赤裸々な事実をつきつける。

 

(その意味では、彼らが「黄禍論」ではなく「ラッダイト運動」に走るならばまだしも理解できるのだが。と余計で危険な脇道に逸れるのはこのくらいにする。)

 

本来の雇用を生み出すためには、今、労働市場によって求められるスキルを教育、トレーニングを通じて、労働者が身に着けるしかないのだと。しかしこれはこないだのマンキュー教授ならずとも、言うは易く行うは難しであることはよくわかる。

 

雇用を生み出すためという目的が教育、特に高等教育の現場で前面に現れるようになって久しい。

 

大学自らが、自分のアイデンティティ職業訓練の場にせざるを得ない状況に追い込まれている。そしてこれが、文系軽視、理系重視というお定まりの短絡思考へと繋がっていく。

 

本日の日経にフィナンシャルタイムスからの転載の教育に関するコラムがあった。

 

米教育改革 労働力育つか

グローバル・ビジネス・コラムニスト ラナ・フォルーハー

 

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20170316&ng=DGKKZO14118140V10C17A3TCR000

 

『米国には2種類の労働市場がある。博士号を持つ人向けの豊富な求人と、単純労働しかできない人向けの、もっと多くの仕事だ。ところが、その中間の仕事があまりない。これは、経済が主に個人消費で成り立つ国に生じる問題だ。

 

 トランプ米大統領は、こうした中間層の雇用を取り戻すと公約し、当選を果たした。だが、トランプ氏がグローバル化の流れを反転させ、技術の進化に伴い仕事の内容がどんどん変わる流れを反転できたとしても、英語対応のコールセンターやプログラミングといった仕事が海外に流出してしまうという米国が今抱えている問題の解決にはならない。つまり、現在必要とされている職業スキルと労働者の間に存在するギャップをどう解決するかという問題だ。』

 

しかし問題は、人間の能力というものは、促成栽培できないということである。大学は深い意味での人間の形成の場、今後長い期間生きていくための、地力を蓄える場であるという考え方は、現実的ではない、甘っちょろいリベラルアート的戯言だと考える人々からすれば、「聞き飽きた」となるのかもしれない。

 

『 今進めている仕事に結びつくような教育が目指すのは、1970年代に崩壊した産学協同の取り組みの再構築だ。当時、リベラルな改革派は職業教育に力を入れることは人種差別的で、かつ階級の固定化につながると主張し、この種の教育を廃止に追い込んだ。彼らは、人はみな溶接などより米小説家メルビルを学ぶ権利があると考えたのだ。』

 

文系としての「甘っちょろい」生活を長年送ってきてしまった身としては、今更ではあるが、溶接というような手仕事への抽象的なあこがれがある。(エリック・ホッファーへの憧れと言った方がいいか)でもやっぱり若い時にメルビルを読む必要性というものに一票入れたくなる。

 

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現代という時代の気質 (晶文選書) | エリック・ホッファー, 柄谷 行人 |本 | 通販 | Amazon

現時点で、需要がある仕事を得るために必要な能力と小説を読み、自らの人生を考えるということを二項対立的にとらえることには違和感がある。

 

今ある労働市場需要に完全にコミットした自己形成は、こんな変化のスピードの速い時代には、むしろ自殺行為だと思うからだ。

 

僕が希望する教育とは、世の中の急激な変化の中で、生き残るために役に立つあらゆるもののブリコラージュ(寄せ集め、器用仕事)である。

 

当然、海の中での生き延びるための戦いの顚末に読みふけることの、今日の意味はわからない。しかしなんとなくいつか役に立つだろうと、背負った頭陀袋にとりあえず、放り入れておくぐらいの軽さで長く続けるのがいい。

 

コラムの中で、トランプ政権の顧問で、新しい労働力訓練計画を推進するIBMのCEOジニ・ロメッティの活動が紹介されている。

 

『 この議論が再び浮上している、とロメッティ氏は言う。将来の多くの仕事は、文系や理系の学問と職業スキルという従来の分類の中間に来るものだからだと同氏は説明し、そうした仕事を「(ホワイトカラーでもブルーカラーでもない)ニューカラー」と名付けた。

 2年間の準学士レベルの教育を受けて高度に訓練された機械工なら、二流、三流の4年制大学で政治学を学んだ大卒を軽く超える初任給を得られるようになるだろう。

 

 オンライン教育が盛んになれば、4年制の学位を得るために多額の負債を抱え込む必要はなくなる。教育は、個人の必要に応じて細分化されるべきだ。メルビルは自分で読むこともできる。あるいは、ハーバード大学教授による「白鯨」の講義をストリーミングで視聴することもできるし、大人数のオンライン講座に参加してもいい。』

 

 

このコラムの中の新しい教育を模索する人の、オンライン教育云々というあたりはどうも浅くて、古臭い大学組織への妙な憧れに縛られている僕には好きになれない。企業人が「偉そうな顔」をして高等教育に口を出すという風情が大嫌いだという僕の頑固な偏見のせいもある。

 

しかし、ともかく、人間の仕事、生き残りというものは、マニュアルに沿った勉強というよりは、なんとなく気になることをとりあえずやってみるという「たゆまぬいい加減さ」の中で案外身に付くものだというのが実感だ。そしてそれ以外のベストプラクティスはないと断定してもいいくらいである。