21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

2011年3月11日(金)14時26分 東京

2017年3月12日(日)12℃ 晴れのち曇り

 

昨日で、東日本大震災から6年が経つ。直接の被害者ではなく、この記憶においてもむしろ口ごもることばかりなのだが、時の速さというほどには、自分の中で、3月11日は風化していない。

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digital.asahi.com

 

東日本大震災から11日で6年となった。死者は1万5893人、行方不明者は2553人、震災関連死は3523人にのぼる。ふるさとを離れて避難先で暮らす人はまだ約12万3千人おり、東京電力福島第一原発事故のため、約5万6千人が国の避難指示を受けている。地震のあった午後2時46分、各地では亡き人びとへの祈りが捧げられた。』

当時の日記を読み直してみた。出来事のあまりの巨大さに圧倒され、事実を観察することと、自分の精神状況を守ることに必死だったことだけがよくわかる。特に、津波という見える脅威が、放射能という見えない恐怖に重なっていく中で、不確実な情報の中で、パニックに陥らないための情報との距離感を保とうと必死だった。


(以下日記より)


2011
年3月11日(金)14時26分

南北線に乗っていた。永田町の駅で、停車時間がちょっと長いのかなと読んでいた本から目をあげると、車両が揺れはじめた。地震だ。随分、大きいし、長い。乗客は、判断に困っていた。地下鉄が動き出すのを待つべきかいなか。

ぼくは、雑踏が嫌いだ。すぐに、地上に出ることにした。まだ、出口へ向かう人の流れはまばらだった。改札は、オープンになっていた。途中エスカレータが止まっていたりする中、黙々と地上を目指した。

地上に出て、最初に気づいたのは午後3時にしては、路上に多くの人がいることだった。オフィスビルの前に、多くの人々が集まっている。それがビルごとに起こっているので、路上は途方に暮れた表情でいっぱいになった。

携帯電話は案の定、全く機能しない。メールも見られない。

次の目的地の新宿には行けそうもないと瞬間に思った。

ビルの前に立っている人の中には、ヘルメットと防災バックを抱えている人もいた。ある女性は、もう怖くて、ビルに戻れないと泣き顔の人もいた。

地下鉄の中で感じた揺れも、高層ビルの中では相当に増幅されたのだろう。

携帯ラジオをつけると、震源地が東北地方であることや、津波の危険があることが繰り返し報じられている。携帯電話を忘れても、ラジオだけはいつも身につけていた。こんな時のためだ。

他人は、神経質すぎると笑うが、実際、数年に一度は、携帯ラジオを身につけていてよかったと思うことがある。

人どおりが少ない路地を通って内堀通りに入った。英国大使館近くは、ヘルメットをかぶった外国人たちが目につく。左手に英国大使館を見ながら歩いていると、千鳥足のようになった。かなり強い余震だ。ラジオも、スタジオが揺れるので、リアルタイムにパーソナリティが、余震について報じている。

しばらく、立ち止まって、電柱の先の避雷針が揺れるのを眺めていた。

内堀通りを抜けて、靖国神社についた。トイレを探して、神社に入った。靖国神社は、防災拠点になっているらしく、勤め人の集団でいっぱいだった。神社の左奥の方にある池の前のベンチに座って、PCを開いた。やはりネットには繋がらない。しばらく休憩しながら、どうしようかを考えた。

おそらく、オフィスは、同様な状況だ。となれば、ワイアレスではネットに接続できないとすると、接続性を回復するには、自宅に戻って、ケーブルに繋ぐことだと思った。歩けないほどの距離でもない。

とんでもない金曜日になってしまった。

携帯ラジオがあるので情報は逐次アップデートされた。どんどん地震の大きさが伝えられる。靖国通り外堀通りと歩いていると、自然、帰宅の波の中に巻き込まれた。比較的早い時間だが、帰宅の指示がでた企業も多いのだろう。

数時間歩いて自宅についた。

ケーブルを繋ぐと、ウェブは正常に機能している。停電にもなっていないようだ。余震は続いている。オフィスは、地震の時点で閉めて、社員に帰宅指示をしたようだ。皆、徒歩で自宅を目指しているようだ。

それ以降は、テレビもラジオも震災放送一色で、息を飲むような津波の映像が、繰り返し流されていた。

ツイッターやメールで知人の安否確認をしたり、外で、復旧を待っている社員や家族に対して、繋がりにくい携帯やメールで、地下鉄の復旧状況を逐次伝えたりしているうちに、3月11日は過ぎていった。

東京でも余震は続いている。

自然というものは、こうして淡々と、人間の暮らしというものが、根本的な無根拠性に基づいていることを、暴力的に知らせようとするのだ。

2011年3月12日(土)

地震からあけた土曜日。余震は続いている。東北地方の被害の大きさには言葉を失うほどだ。

宮城県沖地震を仙台で経験した。当時も縦揺れと横揺れがひどく、アパートの中もめちゃめちゃになり、しばらくガスや水道が使えなかった。そのときも、地震は午後に起こったように記憶している。夕飯の支度が始まる前だったので、火災がほとんど起きなかったのが被害を最小にした。津波も起こらなかったはずだ。

多くの溺死者が仙台市の海沿いの街ででたということが衝撃だ。

その後も、大船渡の街が津波に飲み込まれるシーンが繰り返し流された。そのマグニチュードのあまりの巨大さに、リアルに感じられない。

東京の交通機関も地下鉄は皆復旧し、それ以外も、通常の3割から5割の運行状況にもどりつつある。コンビニの棚は、補給が遅れているせいか若干まばらになっている。とはいえ、東京は通常を取り戻しつつある。

むしろ、ツイッターなどを見ても、福島の原子力発電所メルトダウンのリスクの方にも関心が向き始めている。

スリーマイル、チェルノブイリメルトダウンという言葉が、定義定かじゃない形で、伝えられ、不安を増幅する。

枝野官房長官による状況の説明の映像ばかりがテレビから流されている。

放射能汚染のリスクの度合いがわからぬままに、不安感だけが増している。

危機管理の中では、当然ながら、すべての情報を開示すべきかどうかという判断がなされることになる。それに対して、ツイッターを中心とした識者たちが批判を加える。

危機状況においては、パニックを抑えるということが至上命題のように思われる。こういった事態での、情報の氾濫を平時の感覚で評価すべきなのだろうか。

2011年3月13日(日)
日曜日。後楽園、有楽町、秋葉原、神田、神保町などを歩く。

日曜日にしては、街に出ている人が少ないということ以外はいつもと変わらぬ風景だ。

コンビニで、水が見当たらないことや、スーパーが大混雑、家電量販店で携帯ラジオが売り切れというようなことが目立つぐらいだ。

テレビ報道は、テレビ東京がアニメや通常番組を流している以外は、同じように、震災の悲惨さの映像を垂れ流している。

ラジオは、FM東京上杉隆さんをパーソナリティにして、音楽と震災情報をバランスさせた極めてクオリティの高い番組を流していた。

福島原発では、避難地域が20Kmと拡大。メルトダウンという言葉が無定義に使われることに違和感を感じた。

20
時過ぎからは東京電力計画停電の情報が流れ始める。本日の電力需要が4100万KWであるのに対して、供給が3100万KW。これを放置すると、一斉大規模停電が生じる可能性があるので、該当地域を5グループに分けて、かわるがわる停電させるという手法を取るとのこと。

しかしこの輪番停電は、公共交通や水道、信号などのライフラインに重大な影響を及ぼすことになる。

公共交通では、山手線、丸ノ内線、銀座線が従来通りの運行。それ以外は、地域限定運行、運休、大幅な間引き運転が行われるので、通常の通勤は避けるべきと。

電力制限の中での経済活動の初日が始まることになる。

 

2011年3月14日(月)

東電輪番停電の情報、交通情報などが、安定しないこともあって、朝の通勤は混乱したようだ。

早朝に動いたので、乗り継いだ営団地下鉄は順調に運行した。

オフィスの状況を確認し、従業員の通勤可能状況をメール等で確認し、原則在宅勤務の指示をして、帰社することにした。山手線は、2割程度の運行とかで、大変な混雑で、ゆっくりとした速度。

移動中もラジオを聞いている。福島原発の状況の進展が小刻みに告げられ、そのあいまに、輪番停電が開始するかどうかのニュースと、被災地の情報が流れる。

JR,地下鉄、東京電力と、未曾有の災害に必死で対応している。マスコミの質問の、批判的な口調が、神経に障る。

責任者を出せというトーンはやめてほしい。このトーンが、多くの人間の心の中にとても重い澱のようなものを蓄積させる。

疲労感が強い。

夕方の池袋。壁面の映像広告をやめているせいか、いつもよりも暗い。しかし、いつもよりも夜らしい。夜らしい夜を思い出すべきなのかもしれない。

 

2011年3月15日(火)

東京も余震が続く。計画停電、公共交通の運行状況が低水準。テレビ放送がすべて被災地の悲惨さを報じるという異常環境の中で、直接の被災地ではない場所に住む住民の心理にも大きな影響を及ぼしている。

精神衛生上、自分にかかわりのある部分にだけ集中することにした。

特に、ツイッターやテレビで、福島原発の動向について一喜一憂するのをやめた。

情報を最大限集めて、自ら判断することに、現状ではあまり意味はない。

現状は、政府、東京電力自衛隊などの判断に委ねざるを得ない。ぼくはむしろマスコミ等の批判とそれに伴う世論というものへの配慮が、結果責任だけを追求すべき、鋭角な判断と行動に悪影響を与えることをぼくは恐れる。

今、マスコミが何を言おうと、この環境で危機管理にプラスの影響を与える可能性は少ない。いきおいパニックを生み出すだけだ。

彼らが確信犯的覚悟のもとで生み出した帰結に対する結果責任を事後的に問うこと、それが政治ということである。

ぼくは、停電情報、列車運行状況だけにフォーカスして、パニックに陥らぬようにし、前を向いて自分の人生を生きようと思う。

 

全体の交通状況を踏まえているわけではないが、少なくとも、南北線都営三田線白金高輪までしかいかないこと、終日この状況が変わらないことだけは社内アナウンスや駅員の説明でわかった。

電力不足というものが、ここ10数年の未曾有の利便性というものを否定しているということだけは明らかだ。都心まで何十分という謳い文句で販売された比較的郊外からの、一斉通勤というモデルが現時点では崩壊しているわけだ。

この電力状況を前提とするならば、一斉通勤というモデルが変化せざるを得なくなるのだろう。

NHKのニュースは、福島原発問題。この問題は、伝えている人間も、受領している人間も、中途半端な知識しかないということだ。

さらに専門家と呼ばれる人々も、原発の危機管理の総合的専門家などという人はいるはずもなく、それぞれの領域の中では正しい発言を繰り返すことが、一般の人間にとって一番重要なこと、自分にとってそれがどんな意味を持つかということへのシンプルな回答が知りえないという結果につながり、フラストレーションと混乱を招くことになる。

Evacuation zoneに住む人々と、それ以外の人々にとって必要な回答は、当然ながら、同じではない。

Aという地域の人には大変だが、Bという地域の人は大丈夫ですよというメッセージは公共放送という立て付けでは難しい。

政府のパターナリズムによる情報統制がうまく行かないのは、こういった複数の当事者に対する妥当なメッセージを出すことが極めてハードルの高い課題だからだろう。

 

2011年3月16日(水)晴天
地下鉄のキオスクで久しぶりにヘラルド・トリビューンを買った。最近は、さほど日本が取り上げられることもないので、ウェブで済ますようにしていた。3月11日以降は、当然ながら、日本のニュースが一面を賑わせている。こんな形で、賑わせることはきわめて残念だ。基本的に日本のマスコミの能力に対する不信感が強いので、報道というものを強く必要とするようになると、いきおい、海外報道に頼ってしまう。

彼らがすべて正しいとは思わない。ただし、日本政府、東電などに対する配慮が相対的にないという点では、一面の真実を表すはずだ。

Nuclear Plan in Japan on the brink(By Hirko Tabuchi, David E. Sanger, and Keith Bradsher)

瀬戸際の日本の原子力計画という記事の中のこんな一節。

The succession of problems at Daiichi was initially difficult to interpret, with confusion compounded by incomplete and inconsistent information provided by government officials and executives of the plant’s operator, Toyo Electric Power.

(第一原発で連続して起こった問題を読み解くことが当社は困難だった。理由は、政府当局、東電の経営陣が、不完全で、整合性のない情報の提供を行って、混乱を招いたことが原因である。)

このあたりの情報開示における不誠実さを、上杉隆さんなどのフリージャーナリストが、ツイッター、Uストリームなど新しいソーシャルメディアの中で、批判し続けている。

たしかに、地上波テレビの報道は、NHK以外は見るきがしない。

少々毛色の変わった視点としては、
A disaster, yes, but not a deterrent( Heather Timmons and Vikas Bajal)
日本の災害は、インド、中国の原子力計画を一切抑制しないという記事。

曰く、インドや中国など経済成長をしている国は、今回の日本の事故によっても、今後の原子力発電の政策の変更を考えていない。まだまだ国民に十分な電気が行き渡っていないのだから、自分たちは、原子力発電という選択肢を外すことはできないということだ。

欧米先進国においては、間違いなく反原発の動きが勢いを増すはずであり、このあたりには、南北問題的な違いが生じてくるのだろう。この記事の細かい点でなるほどと思ったのはGEと原子力発電所のプロジェクトを考えているインド政府が、その契約の中に、事故の際の発電所プラントのサプライヤ(GE)に対する賠償責任の条項を盛り込もうとしてもめているという件だった。通常はオペレーターに対する賠償責任条項をあっても、サプライヤーに対する責任条項は盛り込まれてこなかったわけだ。今回も、福島原発は確かGEだと思うが、契約上、責任は及ばないわけだ。

昨今の報道の中で、一番重要性を持ってきている使用済み燃料棒のリスク(spent fuel rods)については、

A radioactive peril that’s ‘worse than a meltdown’(BY William J. Broad and Hiroko Tabuchi)

という記事が詳しい。

使用済み燃料棒のリスクは、現在使用されている燃料棒に比べればリスクが低いという発表が東電からなされているが、この記事の中で、インタビューに答えて、David A. Lockbaumという原子力エンジニアが意見をいっている。

使用済み燃料棒においては新しい方が古いものよりも発熱性は高い。冷却プールの中で、数日から1週間近く、プールの水を沸騰させ続ける可能性がある。プールの水が枯渇し、燃料が露出すると火災になる可能性があると述べている。

現実に直近で起こっていることの中にはこういった事態も含まれているのだろう。

「使用済み燃料棒が数ヶ月前のものならば、その最も危険な放射性副産物の一つであるヨウ素 131は無害な形に分解される。しかしセシウム137の場合は、半減期half-life)が30年と長く、放射能を1%レベルにまで低下させるには2世紀かかることになる。

1986年にメルトダウンを引き起こしたチェルノブイリ発電所の周辺の土地を依然として汚染しているのはこのセシウム137なのだ。」

最近、使用済みのプールが着目されているのは、この放射能汚染のリスクの故なのだろう。


外国人が一斉に日本から逃げ出しているというツイッターなどで伝えられる情報については、

Problems intensify for survivors (BY Martin Fackler and Mark McDonald)
という記事の中でこんな風に報じられている。

「連続する原発事故の影響で出国を急ぐ外国人が急増している報道に対して、ある西側外交官は、火曜日の夜に、こういったanecdotes and rumors(ここだけの話や噂)が外国人コミュニティの中で出回っていたと発言した。

ただし、未だ大量出国というような事実は見受けられていないようだ。ちなみに米国大使館は在日米国人に対して、出国勧告はしていない。」

ルース米国大使は、東北5県に1300人の米国人が居住することを明らかにした。現在大使館は、米国人の安否確認を急いでいる。

さまざまな情報の中でぼくが一番大切だと感じたのは、
Radiation Exposure Could Curtail Workers’ Efforts(By Henry Fountain)
原発事故に対応する上で東京電力が直面しているもっとも深刻な問題は、労働力不足であるという内容の記事だった。(日記以上)

 

精神的な不安感や、生活上の若干の不便はあるものの、東京の生活は、急激に元通りになっていった。その一方で、東北地方を中心に、被害は制御不能な形で拡大していった。ぼくは、それにつれて、語る言葉を失っていったことを記憶している。

 

若松英輔さんが、日経新聞の今日の朝刊に「それぞれのかなしみ」という文章を投稿していた。その中の、こんな文章に、当時の記憶が共鳴した。

 

http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20170312&ng=DGKKZO13915570Q7A310C1BC8000

『他者の悲しみを感じ取るのは、悲しみを生き、哀しみの花を内に秘めている人だろう。私はこの六年間に被災地で幾人もそうした人々に出会ったように思う。彼らは他者に同情するのではない。ただ、哀しみによって共振する。世に同じ悲しみなど存在しない。だが、異なる悲しみだからこそ、共鳴し、そこに常ならぬ調べを生むのである。

 

 憐れみと同情は似て非なるもの、というよりもむしろ対極にあるもののように思われる。同情するとき私たちはしばしば他者に励ましの言葉をかける。同情は、心ない言葉によって表現され、人を傷つけることが少なくない。

 

だが、真に憐れみを感じるとき人は、それを沈黙のうちに表し、相手もそれを沈黙のうちに受け取っている。』

 

自分の想像力の中でさえ圧倒的な悲劇に直面して、無傷である自分が、悼むという言葉を発することさえ憚るような沈黙に押しつぶされていたのを記憶している。