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マインドフルネス革命:リラックスするために必死になるなんて!

インドで生まれて、二つの経路で伝わった仏教の流れが1995年オウムで騒然としていた日本で、歴史上はじめて出会い、20年近くの年月をかけて、融合しようとしている。

震災や、イスラーム国問題などで露呈したあからさまな空虚さにほとんどの人の心は耐えられない。若い人は若いなりに自分の存在理由に悩み、若くない人は、突きつけられた生老病死や雇用不安などの中でとめどない不安にさらされている。

こういった動きの中心に、マインドフルネスというコンセプトがある。パーリー語でSati、念とか気づきとか訳される。

オウム事件直後にスリランカからやってきた南伝仏教であるテーラワーダの僧たちが、中国を経由して仏教が渡来した際に、禅を除いて、広く身体技法として伝わらなかった気づきの瞑想を日本に初めて伝え、その「実践性」によって広く人々の心をとらえた。その活動は今も現在進行形であり、日本の近代化の過程で、重要性を他律的、自立的に奪われた日本仏教に対しても危機意識という形で大きな刺激を与えている。

このマインドフルネスというものが大きな社会的影響を与えているもう一つの先進国が米国である。

最近、メジャーなメディアが競って取り上げるようになった米国におけるマインドフルネスブームだ。

最近のFTも、仏陀に端を発する世界観宗教と、ビジネスマンの強靭で柔軟な精神を作り上げるための一種の自己啓発トレーニングの共存を、欧州的な冷静な眼で批評するコラムを掲載している。

http://www.ft.com/intl/cms/s/0/ee65c5e4-c82f-11e4-8fe2-00144feab7de.html?siteedition=uk#axzz3VpV9q6L9

確かに違和感は強い。西欧近代のもたらした「合理性」を徹底追及する資本主義の聖地であるシリコンバレーで、グーグル、アップル、ソニーマイクロソフトが続々と瞑想トレーニングを社内研修としてとりあげているという不思議さ。

同床異夢としか言いようがない。ただ、合理性を徹底追及する過程で、人間の心が秒刻みにデジタル化される中での集合的無意識の流れと言えないこともない。資本主義の論理はそのあたりを合理的に誤解していくのだろうが、この瞑想に彼らが求める合理的帰結は決して達成されないはずであり、トレーニングに真面目に取り組むものほど、より深い闇の中に追い込まれていくはずだ。

Bristol大学の仏教学者のRupert Gethinという人のこんな引用がそんな違和感を簡潔に示していた。

“The Buddhist framework is one that orientates you towards something bigger and beyond yourself, whereas the danger when you remove that framework is that you reduce it to something that actually is just about you, one simply of utility.”

そうなのである。大乗仏教とは自らの存在理由、生老病死、大きな存在の鎖の意識等、より大きな世界観なのであり、そのようなものとして再生する限りにおいて、ぼくたちにとって本来的な実践性を持つものになるはずなのだ。

目の前の仕事に集中し、メリハリのついたビジネスライフを送るためのツールなんてのは、浅薄すぎて、嫌になってしまう。

このあたりのアメリカの科学主義は、今流行の反知性主義の最たるものなんだろうな。

リラックスするためにも必死になる文明。しんどい話だ。