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21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

宗教の時間:色は空と異ならず、空は色と異ならず(一法庵)

歩きながら、一法庵の法話を聴くことが多い。それ自体が僕にとってのWalking Meditationになっている。

 

般若心経の章句を手がかりにした今回の「青空としてのわたし」の説明は、再び、実践としてのニッパーナへと漸近していく深みがあった。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c1/c38ff3e62d1877280b137cf889d1eeb4.jpg

 

 

聴きながら歩く、僕にも常とは違う響きを与えてくれた。

 

 

trailblazing.hatenablog.com

 

 

 

 

15/06/28 色は空と異ならず 空は色と異ならず | 一法庵

(正確な書き起こしではありません。要約、整理を行っていることにご注意ください。)

 

雲と青空の関係性のつめが自分でも甘かったような気がしている。

 

自分の本質が青空というところまで理解してもらえばいいと思っていた。

 

理解するためには一つ一つ説明していく必要があるので、多少不正確でもその概念をまず持ってもらうということが必要だった。

 

とはいえ、青空と雲のたとえは100%正確ではなかった。

 

この関係をもっと正確に描写したい。

 

「アップデートする仏教」を書いた時には、2.0から3.0へのアップデートを丁寧に説明した。その分、1.0から2.0への移行については十分に話せていない憾みがある。しかしあの本の説明は、1.0から2.0への移行の理解を前提としている。

 

最近はこの部分を正確に説明してくれる人が現れるようになっている。

 

その結果、日本仏教の状況が正確に把握されるようになってきた。

 

少々粗っぽく、アビダンマの世界観を説明する。実際には、もっと精密で緻密な説明がなされている。ここでは一足飛びで結果に触れる。

 

世界は4つのものによって構成されている。

 

ルーパとチッタとチェターシカ、そしてニッパーナだ。

 

ルーパは物質的なもの。  Rupa(色)

チッタは精神。      Citta(心)   

チェターシカは心の属性。 Cetasika(心処)

 

これらをひっくるめてナーマNama(名)と呼んでいる。

 

問題は、ニッパーナnibbanaというわけのわからないもの存在だ。

 

世間の人々から観れば、世界はルーパとナーマでできている。

精神と物質によって構成されているのが普通の人々の世界観である。

世間と仏教の世界観の違いは、ニッパーナが存在するかどうか。

 

ニッパーナの存在を我々に伝えたのは、お釈迦様である。おそらくインドの精神世界にも似たような考え方が存在しただろうと思われる。

 

ニッパーナがない世界観の人の生き方はどうなるか。

 

ルーパとナーマしかない世界で、生きようと思えば、幸せをこの世界の中で求めるという生き方しかない。

 

結局、お金じゃないか。あとは社会的地位。異性。有名。おいしいものを食べたい。いい音楽を聴きたい。

 

要するに、こういったものの中で幸せを求めようという生き方になる。

 

これに対して仏教に関わった人々は、この世界で何かをしようとは思わなくなる。

 

なぜならば、ニッパーナという切り札があるからだ。

 

世間の人々はこんなものに共感などしない。

 

だからほとんどの人にとって宗教など関係ない。

 

しかし中には鋭いというか、ひねくれた人がいて、この世界の中で幸せを求めるというのは原理的には難しいのではないかということに気づいてしまう。

 

今若いといっても、いずれ年老いていく。こういったことから逃れられない。

こんなことを考えても仕方がないとするのか、であるならば、虚しさを感じたり、病気になったりする人に分かれていく。

 

ニッパーナあるいはそれと類似するものが社会の中に現れている文化の中では、人々はそれに魅かれていく。

 

ところが、日本では、ニッパーナは社会的に隠蔽されてきた。

 

しかも、ニッパーナを本来提供すべきお寺がうまく機能していなかった。

イスラムではモスクがあって、一日5回礼拝が行われている。

 

現世の快楽はなんの価値もないという感覚は、ニッパーナが社会的に存在する文化では珍しくはない。

 

ミャンマーではお坊さんが一番偉い。

 

時々政府がサンガに仏像を送ると、サンガの長老が椅子に腰かけて、政府のトップが膝まづいたりする。

 

日本における第一のアップデートというのは、このニッパーナというものが存在するのだということが、社会的に認識されたということにある。

 

どういうことかといえば、

 

どうせこの世界は無常、無我、苦なので、この中では満たされない。だからそうでない何かを求めたい。

 

それではどうすればいいのか。

 

ルーパとナーマを合わせると、ナーマルーパNamaRupa(名色)という。

 

煎じ詰めるとこの世界は名色とニッパーナによって構成されている。

 

名色は条件づけられた世界。(サンカタ 有為

 

ニッパーナは条件づけられていない世界。(アサンカタ 無為

 

私たちは、条件づけられた非常に頼りない世界に生きている。だからこそ、苦しみから逃れるのはなかなか大変なのである。

 

苦を克服するには、ニッパーナの世界へ行くしかない。

 

唯物的な世界で、宗教的なものについて抑圧、隠蔽されてきた社会では、この第一の発見だけでも大きな衝撃だった。

 

そんな世界があるのかという驚き。

 

ニッパーナを認めたということだけでも、この1.0から2.0へのアップデートは画期的だった。

 

次に考えるのは、ニッパーナへどうやって行ったらいいのか。

 

パオ・セヤードの主著の題名は、涅槃への道である。

 

この道はニッパーナへ続く。

 

この世界はルーパとナーマでできている。そして縁起に従って生じて滅している。

瞑想は、ルーパやナーマとは何か、そしてそれがどのように縁起しているかを学ぶことである。無常、無我、無為をビパッサナする。

 

このような説明が続く。

 

しかし、それでどうするのかがはっきりと説明されていなかった。

 

ビパッサナの果てに到達するのは、現世的なものを削ぎ取った、何もない真っ白な世界だ。

 

これがゼロポイントである。

 

消滅滅己。

 

しかしここで話は終わらない。

 

ここで終われば一法庵の意味はない。

 

3.0へのアップデートがここで生じることになる。

 

2.0の中にある、私という主体が、ニッパーナという客体を目指すという構えには問題がある。仏陀は、それが主体と客体という関係にはなりえないと言っている。

 

それでは、どういうことなのか。

 

私がニッパーナに近づいていくのではない。

 

私たちがニッパーナを経験するというのは、私たちがニッパーナになるということなのである。

 

ナーマルーパが、ニッパーナになるというのはどういうことか。そしてそれはどこで生じているのだろうか。

 

実は、私たちがニッパーナを経験するとき、それは私の中で起こっているのである。

 

自分は二重構造でできているのだ。すなわち私はナーマルーパであると同時にニッパーナでもあるのだ。

 

般若心経がこれを言っている。

 

色不異空

空不異色

色即是空

空即是色

 

条件づけられているものと条件づけられていないもの、形のあるものと形のないものが等式で結ばれるのはこの私の中でのみ生じるのだ。

 

私は二重構造になっている。

 

相対的な幸福でなく、絶対的な幸福を求めるにはどうすればいいか。相対的幸福、条件付き幸福の条件をすべて消していけばいいのだ。壊れるものをすべて消し去ったのちに空が広がるのである。

 

 

壊れるものだから不安なのである。それが何もなかったら解放される。

 

ようやく空にたどり着いた。壊れるものを持っているから、不安になるのだ。壊れるものがすべてなくなれば、不安から解放される。

 

 

繰り返せば、世の中にニッパーナが存在するということに気づくことが第一のアップデートだった。

 

二つ目のアップデートは、そのニッパーナの存在を体験する時に、私自身がニッパーナであるということが開示された。すなわちこの世界そのものがニッパーナの世界なのだ。

 

青空と雲という比喩の中で、青空があって雲が生まれるという言い方をしてきた。

 

それでも、間違ってはいないが、少し不正確だ。どこが不正確かと言うと、こう表現してしまうと、青空と雲が分かれている。

 

青空からの雲の生成には時差がない。同時決定、同時生成されるのである。

 

1.0の世界では、世間は小さな幸せを見つけるところ。

2.0の世界では、大きな幸せを自分の外に見つけるところ。

3.0は大きな幸せを自分の内側に見つけるところ。

 

3.0の世界では、修行の具体的な意味ががらりと変わる。

 

自分の身体は単なるルーパではなく、青空としての身体でもあるからだ。

 

呼吸そのものが青空なのである。

 

慈悲の捉え方も変わる。

 

私があの人を嫌いだったのは、あの人が青空の現れだということが分からなかったからなのだ。その嫌だという気持ちをなんとか押さえようとしても無理だ。あの人もまた、青空であるとわかった時には慈悲しかない。

 

慈悲というのは青空としての私が青空としての他人に対して持つ思いなのだ。

(以上)