21世紀ラジオ (Radio@21)

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宗教の時間:宮沢賢治 間身体性としての慈悲

見田宗介さんの「宮沢賢治」を読みかえしていたら、こんな一節があった。宮沢賢治の気質のようなものに対する友達の記憶である。

 

 

「小学校のころの賢治のともだちの回想によれば、罰として水をいっぱい入れたボールをもったまま立たされていたクラス・メートに、賢治は同情してあっというまに、そのボールの水をのみこしてしまったりした。けがをした友人がいると自分のことのように痛がったという。このような挿話は通俗にすぎるがゆえにかえって反発をかうところでもあるが、このように賢治において生きられる間身体性こそは、かえって賢治の現代性を、その身体自体の水準において支えていた資質でもあったはずである。賢治にとってこれらの級友は<自己であるような他者>である。意識においてそうであるまえに、非意識において、つまり身体においてそうなのだ。(p74)」

 

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-61-d0/sasaootako/folder/1526981/97/63244097/img_0

 

山下良道さんの今回の法話の中の、私とニッパーナが、私の中で等式に結ばれるということ、仏教3.0が目指すものというものの裏付けにはこういった身体性が存在するのだろう。

 

間身体性としてとらえられる慈悲。

 

15/06/28 色は空と異ならず 空は色と異ならず | 一法庵

 

瞑想という身体技法は、こういった間身体性を共感する作業なのかもしれない。