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21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

惑星の時間:人生のピーク Irwin Shaw ”Eighty Yard Run"

何年、何十年か置きに繰り返し読みたくなる本がある。

 

Gay Talese, Raymond ChandlerそしてIrwin Shaw.

 

時々に、翻訳であったりオリジナルの英語であったり。

 

そんな中でも、アーウィン・ショーは、僕にとっては特別な作家だ。

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常盤俊平さんの翻訳した「夏服を着た女たち」あたりを読んだのが最初だったのだろうか。

 

それ以来、短編中心に、繰り返し、繰り返し読んできた。

 

なかでも、Eighty Yard Run(80ヤード疾走)という作品が好きだ。

 

男は大学のフットボールの花形プレーヤー。彼がボールを抱えて80ヤードを独走した時、世界のすべてが彼の息遣いをみつめていた。

 

彼は、その栄光を背景に自分のファンの同級生と結婚し、彼女の父の経営する会社に就職する。世界が彼を祝福していた。

 

15年後、この主人公は彼の出発点だった母校のグラウンドに立っている。

 

今、彼は、背広のセールスマンだ。1929年は彼のもとにも平等に訪れ、義理の父のインク製造会社は破綻し、父はピストル自殺をした。彼は、さまざまな職を転々とする。

 

妻は、ファッション雑誌社に勤めるようになり、作家、戯曲家たちとの交友を持つようになる。妻が好むクレーの絵も、妻の友人たちの会話に出る新作のアバンギャルド演劇はちんぷんかんぷんだ。アルコールの量だけが徒らにふえ、都会的洗練の度合いと自立性を深めた妻は、彼から離れつつある。

 

「15年前、まだ20歳で、死から遠くへだたった秋の日の午後、大気が楽々と肺にはいってきて、自分は何でもできるし、誰でもやっつけることができるし、追い抜かねばならないときは、かならず追い抜いて見せるという根強い自信が彼の内部にあった。(中略)その後にあったすべては、ひとつの没落であった。ダーリングは声を上げて笑った。たぶん、僕はまちがったことを練習したのだ。彼は、1929年やニューヨークの街や、女に変わる娘のために練習しなかったのだ。」(常盤新平訳)

 

大学のフットボールのスターであったということを売り物に背広を販売する、どさまわりのセールスマンになった、35歳の彼は、失意の中で、栄光の場所を疾走する。そんな彼を不審そうにみつめる後輩の若い学生たちに、僕は昔ここでプレイしたことがあるんだと、言い訳をしたあと苦笑する。そんなほろ苦い掌編である。

 

もう少し若かった頃は、学校の英雄というタイプの人間たちへの、嫉妬と軽い憎しみのような記憶を感じながら、この短編を読んでいたこともあった気がする。

 

高校、大学、社会人になるにつれ、子供の頃の学校の英雄とそうでなかった自分という記憶を繰り返し反復していた。

 

同じ小説を何度も読むことのいいのは、読んだ時々の年齢によって感じること、気になる場所が異なることだ。

 

なぜか、今度は、無職で酒浸りの男が、妻が雑誌社の編集者となって文化的で多彩な交遊関係に対する不安感を募らせるディテールが面白かった。

 

妻が口にするハイブローな詩人、作家、戯曲家、画家。

 

そしてうっすらと妻に漂うアルコールの匂い。

 

人生のピークをフィールドの80ヤード疾走の中で、達成し、その栄光を否定することもできず、どうしていいかわからず、ただ没落していく男の話である。

 

青春期の栄光をあらかじめ否定されていた男たちに溜飲を下げさせるような教訓的なところも強い。そんなところに、魅かれたことはないと言えば嘘になる。

 

しかし最近は、人生のピークを過去、未来のどの時点におこうが結局は同じことなのだと思うようになった。

 

青春時代の成功も、大人になってからの成功も結局は、与えられたゴールを前提にしているという意味では、常に「空虚」なものにならざるを得ない。

 

どんなゴールだったとしても、いったん設定したからには、必ず、最後に待っているのは、この男と同じ苦笑いだけなのかもしれない。

 

だとすれば、それとは違った生き方がいい。でも違った生き方というのいったい何なのだろう。