読書の時間:岸政彦 断片的なものの社会学
読んだ本のことについて何かを書くというのは何のためなんだろう。
僕は、学者でもないし、プロの文筆家でもない。
僕が、誰の本を読んだか、それをどう評価するかを期待されているわけでもない。
それにもかかわらず、読んだ本のことについて何かを書きたくなるのはなぜなんだろう。
当然、読んだ本のすべてについて何かが書きたくなるわけではない。読んだ後に、僕の中から一切言葉が湧きだしてこない本もある。
僕は多分、純粋な意味でその本を「読まなかった」からだ。
それとは逆に、読み始めたとたん、自分の中の「語り」への本能が駆動されるような文章がある。
読むことと書くことが、縒り合された糸のようになる体験だ。
http://t.co/RG4kgZp3hH … 岸政彦さんの「断片的なものの社会学」すぐ買いに行こう。本屋が開くのを待ちかねて、すぐに買いに行こう。渋谷に聾唖者の悪の集団についてのすさまじい映画トライブを見る前に、買いに行こうと思った。彼の文章にはそれだけの力があると思った。
— Radio@21 (@R21ADIO) 2015, 5月 30
昨日、コトバが崩壊していく世界の恐怖を美しく描いたウクライナの映画を渋谷のUplinkに見に行く前に、東急のジュンク堂で、岸政彦さんの「断片的なものの社会学」(朝日出版社)を買った。
音の暴力をガラスの破片のように身体中に余韻とした感じながら、きれいな装丁のこの本を開いた。
生活史のインタビューというフィールドワークを営々と続けている社会学者の文章は、むしろ詩学と呼びたいほど、僕の内側を揺さぶった。
おそらく、この本は、一度で読み切ることはできない。
その一行、一行から、僕の中に埋もれた「語り」の鉱床が揺さぶれ、そこから、次々と、熱い溶岩のようなものが奔出しそうになるからだ。
大文字の社会という構えが、弾き飛ばしてしまう、些末で意味のないものに繋がっていく視線。
「誰にも隠されていないが、誰の目にも見えない」という章が、僕の中の古い記憶を刺激した。
子供の頃から、僕にとりついて離れないイメージがある。
人類が滅びた後の地球上に一冊放り出された書物のイメージである。
読み手を失った書物の孤独。届かなかったビンに詰めた手紙。
それは、自分の死の恐怖ということや、生ということのいたたまれないほどの不安と連動していた。しかし、どこかで、子供心にもその耽美性を感じていたような気もする。
死の直前まで、発見されることのなかったヘンリー・ダーガーを語るこんな文章が、この奇妙で、とらえどころがないのだが、なぜか強く記憶に残る岸政彦の本の特徴をよく表している。
「この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もう一人のダーガーが、今私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実だ。」
そして、岸政彦の文章の魅力は、ここを抜け出して、さらにうねるように続けてさらにこんなところまで僕たちを連れていくことである。
「だが「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけではなく、彼が見出されなかったことを私たちすら知らない、という物語である(見出されたことを知らない、のではなく、見いだされなかったことを知らない、ということ)。」
満月の光を浴びて、地上に放置された最後の書物が存在する意味は何なのだろうか。