映画:ザ・トライブ 沈黙あるいは現前する暴力
渋谷のUplinkという小さな映画館で、The Tribeを観た。
そもそもSign Languageがテーマなどということで単純に済まされるような映画ではなかった。
セリフも字幕も音楽もない。
時折、聴こえる聾唖者以外の登場人物の声も、はっきりとしない風の撓みのようだ。
舞台はウクライナのキエフの聾唖学校。純朴そうな新入生がやってくる。
しかしその聾唖学校は、一人の学生を中心のTribe(閉鎖的部族)となっていた。矢継ぎ早の洗礼の後に、列車内での記念品販売から売春まで手を染めるTribeに巻き込まれていく。
新入生が、売春を行っている、ボスの恋人に恋をすることから、話は、さらに逸脱を始める。
様々な解釈がしたくなる映画だ。しかしそういった解釈を拒絶する事実がそこにぽんと置かれている。
言葉というものが人間の関係性にとって持つ緩衝材としての機能が否定されている世界がそこにはあった。
そこに展開していたのは、音声言語が欠落した世界ではない。手話も含めて、人間がコトバを使うことを放棄しはじめている世界が表現されていた。
コトバは人間の社会を必要以上に錯綜させると同時に、生々しい暴力が露呈することを遠ざける力も持っている。
堕胎のシーン、暴力のシーンなどが、延々と、神経に障るような長さで描かれる。
生々しく描かれる性行為のシーンさえ、無機的だ。
コトバのない分、靴音、手話で発せられる呼吸の擦過音、モノが倒れる音、モノを叩く音などが観る者の神経を逆撫でる。
コトバのない、無機的な騒音と、暴力が露呈する擦過音が支配する映像だった。
なぜ、こんな映画が撮られたのかという、映画そのものとは関わりのないことの解釈への欲望が高まった。
ウクライナという生の暴力が存在している場所。コトバ(理念)というものを人々が放棄し、それぞれのTribeが、物理的に生きるということの恐ろしさを、過剰な演出なしに、放り出している。
これは虚構ではない。君たちが生きている現実だという映画作家の視線が痛い。