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宗教:一法庵 孤独の向こう側へ生滅が滅し已わった後に

山下良道さん、藤田一照さん、魚川祐司さんのスリリングな鼎談についてまとめたあと、気になって、昔のメモを探していたら、生滅滅已についての山下さんの法話があった。

 

当時の時局論等の部分は割愛して、生滅滅已のあたりについての部分を抜き出してみた。

 

記憶通り、この回の法話は過去10年近くのアーカイブの中でも屈指のミステリアスでスリリングな回だった。決してわかりやすい回ではないが、パオメソッドの最後の局面で、山下さんが感じた割り切れなさと、大乗仏教の論理が立ち上がる妖気のようなものを感じさせ、迫力満点だった。

http://data.onedhamma.com/howa/onsei.files/OneDhamma_080518.mp3

 

2008年5月18日 孤独の向こう側へ生滅が滅し已わった後に

 

孤独の向こう側で誰かと繋がるというのは、仏教の文脈で言うと、自分がもっと大きなものと繋がっていることを認識するという大きな転換点が仏教史の中で起こった。

 

そこで仏教を修行する意味が180度変わった。

 

これが仏教史を二つに分ける転回点になった。

 

それが生滅滅已。

 

このことはこれまではそんなに詳しくは話してこなかった。

 

あまりにも問題が複雑すぎるからだった。

 

仏教史の中の断絶点の一つとして生滅滅已がある。

 

これが般若心経でいえば、色即是空から空即是色へとか、テーラーワーダからマハーヤナへのシフトの必然性のようなものとして説明してきた。

 

しかし真正面に据えたことはなかった。

 

この問題は一度、きちんと整理しておかないとうまく進めない。

 

私の話は、テーラーワーダの枠をかなり逸脱していることに驚く人も多いだろう。

 

ビルマテーラワーダの比丘がパオメソッドを教えているというぐらいの予備知識でポッドキャストを聞いた人は面食らっているはずだ。

(中略)

お釈迦様の教えというのは、いろいろな風に伝わっていて、たくさんの流れがある。しかしたくさんの流れがあるということには意味がある。だからこの中の一つが正しいというような考えはおかしい。100の流れがあるのならば、100の流れがある理由がある。

 

今まで歴史的には、100の流れがアジアの各地に広がって、お互いのことが分からなくなった。

 

ところが21世紀になって、地球が狭くなり、100の流れがそれぞれ面と向かい合わなければならなくなった。最初はお互いの違いに面食らって、自分が正しくて、相手が間違っているという反応になった。しかしようやく、お互いにお互いを本当の意味で尊敬しあうということが大事なことが気付かれるようになってきている。

 

なぜそれが大事なのかと言えば、仏教をドグマ化したりイデオロギー化することをやめるためだ。

もう一つの意味は、仮に100の流れがあって、その流れがそれぞれ伝えてきたものを一つのテーブルの上に載せて徹底的に見ることで、あるものが非常に立体的に現れてくる。

 

あるものが立体的に現れてきたときに、その部分を取り上げて、意味があるとかいっても意味がない。全体として意味があるからだ。

 

(中略)

 

今日は、なぜ、この話をしたかというと、生滅が滅しおわることを話すためである。

私がしたいのは、問題提起だけ。ここで全ての回答を与えることができるとは思っていない。

 

多くの問題に関しては、自分自身完璧な回答を持っているので、それを示せばいいと思うが、今回の問題は完璧な回答を私自身が持っていない。

 

ここでは、大乗仏教、すべての哲学に繋がる話をする。

 

宗教も哲学も、結局、わけのわからぬXという状況を説明するために、ありとあらゆる人が多くの概念を作って説明してきたのである。

 

唯識派が色のみであると言う。しかし言ったとたんに、多くの矛盾が噴き出てくる。ヒンズー教ブラフマンとかアートマンと言って、また多くの問題が生まれてくる。

 

しかしなぜこういう人たちは、こんなことを言わなければならなかったのか。

 

その必然性は何なのか。

 

ここを理解しなければならない。我々が直面しているXという謎の状態があって、いったいこれは何なのかということを説明するために、唯識哲学を作り、ある人はアルバイタという哲学を作って理解していこうとしたり、西洋哲学はそれぞれに理解しようとした。

 

私がしたいのは、それぞれに不完全な哲学体系を考えようということではなく、なぜ、これらの人がこんなことを言わなければならなかったのかを理解することである。

 

我々がしなければならないのは、人が何とかしていおうとしたことの矛盾をつくのではなくて、何に向って、何を言おうとしていたのかを理解することなのだ。

Xとしか言えない状況を、何とか理解しようとして、ありとあらゆる哲学体系が作られてきたということをしっかりと押さえようということなのである。

 

Xというのはどういう事態なのか。

 

これがわからないと、なぜこういう人たちが、こういった哲学を作らざるを得なかった理由がわからない。

 

Xがわかれば、それを理解するために、あのわけのわからない矛盾だらけの哲学体系を作らざるを得なかった動機がわかる。

 

これから私が話すことはテーラワーダの教義の枠を超えている。

なぜ越えなければならないかというと、このXという状況が存在するからである。

 

本日のテーマ生滅滅己だが、まず雪山童子のことを説明する。

 

せっせんげ【雪山偈】涅槃経(ねはんぎょう)に出る4句の偈「諸行無常、是生滅法生滅滅己、寂滅為楽」のこと。釈迦が雪山童子として修行していたとき、帝釈天が羅刹(らせつ)に変じて現れ、前半のみを説いた。釈迦は、後半を聞くために、身体羅刹に 与えたという。いろは歌はこの偈の意をとったものという。諸行無常偈。

 

雪山童子。雪の山というのは仏教ではヒマラヤです。真理を求めて一生懸命修行していた。それを見ていた帝釈天が、修行と言っても、どれほどの覚悟があるのかを試した

 

(脱線;韓国に行くことがあれば、お寺に行ってください。お寺はみんな山の中にあります。日本の仏教を理解するには韓国のお寺に行くのが一番だと思います。韓国は中国と違って宗教の自由もあり、韓国では仏教が盛り上がっています。当然、韓国は日本と兄弟ですから、学ぶべきことはいっぱいあります。しかも、もともとの部分が韓国の仏教の中にはあります。)

 

諸行無常、是生滅法 
生滅滅己、寂滅為楽

 

これをベースにいろは歌が作られたという伝説があります。

 

帝釈天がわざと怖い恰好をして(羅刹)、雪山童子の覚悟を試した。そして仏陀の教えの前半を教えた。

諸行無常、是生滅法

 

輪廻の法則で、縁起に基づき、あらゆるものが生滅している。これはテーラワーダの教義でもある。ビパッサナというのは、ナーマとルーパの生じて滅しているありさまを見つめるのである。しかも、この生滅は、縁起に基づいている。

 

すべてのものが無常であって、生滅しているのがダルマである。偶然に生滅しているのではなく、因果法則に応じて生滅している。

 

これを聞いた雪山童子はこれが真理だとわかる。しかし、これはまだ半分である。

 

しかし残りの二行を教えてくださいと頼むと、羅刹は、もしおまえの命をくれるなら教えてあげようと言った。

 

童子は、真理のためならば、身を捨てても構わないという決意をもって、残りの二行を聞いて、後世に伝わるように、それをどこか木か岩に書きとめた上で、ぽんと高いところから身を投げた。

 

すると帝釈天がそれを受け止めた。雪山童子はお釈迦様の前世である。

 

問題なのは、次の二行である。

 

生滅滅己、寂滅為楽

 

物語は簡単。執着を捨てないと真理はわからないということである。

 

自分が得をするために、真理を求めるということはありえないということを仏教は初めから言っている。何か得をするために、仏教を勉強するということはない。

 

この話でも雪山童子は何も得していない。

 

内山老師の先生の澤木老師は、このあたりをすぱっと言った。

 

「損は悟り。得は迷い。」これは覚えてください。まさに雪山童子と同じ。

 

悟りというのはエゴにとっては損をすること。ここは大事なところ。

 

自分のエゴにとって得になるのならば、それはもはやダルマではない。

 

生滅滅己、寂滅為楽

 

命を捨てるぐらい残りの二行は大切だということ。

 

今日は謎のXという現象があって、それにぶちあたった人たちがこれを論理的に理解しようとしてさまざまな哲学体系を作っていった。哲学体系を吟味する前に、それを作らざるを得なかった根本的な動機を押さえようという話だった。

 

Xが、この二行と一番深いところで関係している。

 

生滅そのものが滅しおわる。(三行目)

 

寂滅が本当の意味での幸せなのだ。(四行目)

 

そこでありとあらゆることが、言われた。

 

ビパッサナによって、あらゆるものの生滅が見えてくるようになる。視力がよくなってくるというか智慧(ミャーナ;16段階)が段階的に上がっていくことによって、それがわかるようになってくる。これはテーラワーダの正統な考え方。

そしてある視力に達すると、サンカーラ(今生じて滅している有様そのもの)に対して完全に執着も怒りも持たない。そういうのがサンカーラ・ウベッカミャーナ。

 

そこまで来るまででも凄いこと。我々はあらゆるものに対してあらゆる執着を持つ。それを乗り越えたということだけでも。

 

テーラワーダの正統な理解で言うと、智慧がもう一歩進むとアーリア(聖者)になる。ここが分かれ目である。

 

テーラワーダで言うと、流れに入れば、あとは、ただその流れに従っていくだけ。

 

この一歩で本格的な断絶がある。この流れに入った人はアーリア(聖者)になるのである。この人たちはもう地獄には落ちない。流れは逆流しない。

 

ここいら辺で謎のXという状況が出てくる。

 

Xという謎の状態に直面するから、これは何なのかということになり、ありとあらゆる哲学体系が生まれる。

 

どういう事態に直面したのか。これを理解すれば、それに直面した人がどういう哲学体系を作っていったのかが理解できるようになるだろう。

 

そこで、生滅滅己。

 

無常は皆頭でわかっているが認めたくない。そこに幻影を求めるからすべての苦しみが生まれてくる。

 

インド映画に「無常なところに永遠を求めるから苦しみが生まれるのだ」というセリフがあった。

 

すべてが変わっていくのに、それに抵抗するから話はおかしくなるのである。

 

これならば、最初の二行でいい。

 

最初と最後の二行に決定的な断絶がある。終わりの二行の真理を理解するためには、自分を捨てない限りは無理なのである。

 

なぜか。

 

自分が握りしめている何かを捨てなければこれはわからない。雪山童子は崖から身を投げた。

 

身を投げるというのは、仏教の比喩としてはよく使われる。

 

今初めて思いついたことを言う。

 

単に生じて滅して、生じて滅してを見るのならば、あるものをまだ握ったままでもみることができる。(こんなこといってしまっていいかな)

 

これだけだったら、まだ最初の二行の話で、崖から飛び降りる必要はない。

 

後半の二行は、崖から飛び降りなければならない。

 

自分の握っているものを捨てない限り見えてこない。

 

体育会系のノリで思い切ってやれというのは違う。日本の禅宗はどうもそうなりがち。

 

じゃあ何に命がけになるのか。

 

生じて滅するのが終わっているから。ここからアーリアが始まる。サンカーラウペッカミャーマは生滅を怒りや執着なしに見ている。これは凄い状況。しかしまだ生じて滅していることはある。それに対する執着や怒りがないだけ。

 

そこから一歩進めたらどうなるのかというと、流れに入って、アーリアになる。

 

そこで生じて滅しているということがおわっている。これは哲学ではなく、瞑想の状態なのである。

 

仏教は瞑想体験を哲学的に、アビダンマ的に裏打ちしている。

 

こういった瞑想体験があって、それを哲学化したのである。

 

これは生じて滅したのが終わったというのは、概念ではなく、具体的な瞑想体験である。

ここで謎のXが登場してくる。生じて滅していることは終っている。Nama(精神的なもの)とRupa(物質的なもの)が生じて滅している。それが終わったというのは、精神活動も物質的活動も終わったということは、当然、無意識の状況になるじゃないですか。

 

そういうNamaがもうないのだから。

 

Namaがあって、NamaとRupaが止まったのを見るというのは矛盾している。これは論理上の帰結。

 

生滅滅己という状況は無意識、夢を見ない眠りのようなものでしかありえない。それならば、論理的に完結する。

 

謎のXが出るのは、この生滅滅己という状態を我々は意識できるからだ。(パオ・セヤードも言っている。)これが謎のXなのである。

 

NamaとRupaが生じて滅してきた。そしてこれが滅し終わった。Namaがないのだから意識できないはずだ。

 

ところが、この状態を完全に、明瞭に意識している。その意識の主体はNamaではない。普通のNamaが生滅滅己しているのに、それを意識している。そういう事態がある。そこが謎のXの状態なのです。

 

だからそれは、もう既に普通のNamaがない。すなわち死んでいる。崖から飛び降りているという意味である。

 

本来ならば死んでるはずの自分がそれを明瞭に意識している。それならば、意識しているXは一体何なのか。

 

寂滅為楽とは、

すべてが何もないはずなのに、それを意識している謎のXが楽であるということなのである。

 

このXという状況を理解するために唯識哲学、池田晶子さんの哲学などもこういう状況に接している。池田さんも晩年には仏教を勉強した。

 

しかし仏教用語を使えば、彼女の言いたいことはすべて言える。

 

ただこの人はオーソドックスな哲学の道を歩いていた。

 

そして謎のXに出会い、それを普通の日本語で説明しようとした。だから彼女の日本語は少し不思議なのである。彼女が出会ったXがわかれば、彼女がなぜ不思議な日本語を使ったのがわかる。

 

この謎をめぐって、あらゆることが言われてきた。そうすると、一気に、話しはとんでもないところに行く。

 

お釈迦様の最初の教えは、人間はNamaとRupaで生きている。謎のXを経験したあとでは、少々、違ってくる。我々がNamaとRupaだけだったら、NamaとRupaが滅し終わった後に、それを意識するXというものは説明できない。

 

NamaとRupaの枠を超えた事態が起こったときに、それを理解するためには、理解もその枠を超えざるを得ない。

 

私の説明はテーラワーダをはるかに超えてしまっている。より大きな文脈に位置づけようとしている。

 

今日は謎のXの謎さ加減を理解してもらえばいい。その後、それを理解するためにどういうことを組み立てていけばいいのか。人間はNamaとRupaでできているという考えはどう組み立て直せばいいのか。

 

この話は今まで一度も話したことはなかったが、今日はじめて真正面から取り上げた。これを説明しないと、もう先にすすめない。

 

ここからまた一気にアナパナに直接に繋がっていくのである。これはまた別にたっぷり時間をかけて説明しなければならない。

 

今日は問題提起だけをしました。回答はない。これからどんどんみんなで考えていきたいと思う。

(以上)