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21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

宗教:一法庵 仏教思想のゼロポイントを語る

金沢のワークショップのポッドキャストが気になって、じっくりと聴いた。

 

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41ZOsuzOCtL.jpg

 

魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」を手がかりにかなり深い境地まで行った。

 

 

 

つきつめると、テーラワーダに代表される2.0の直線的(Linear)な分析の持つ問題性の指摘だった。

 

僕は、仏教学に興味があるわけではなく、自らの苦の克服に何が効果的という観点から判断する。

 

山下良道さんが描き出すテーラワーダというものの問題点というものは印象に強く残った。

 

厄介なのは、瞑想というものを深く行っているわけではなく、まだ知的な理解という点に自分がいるということだ。

 

しかし、苦という状況から涅槃(悟り)という状況への移動がリニアな水平的移動ではなく、通常の認識的布置ではとらえきれない質的変換を伴うものだという考えは、知的にも一種の実感に近いインパクトがあった。

 

このポッドキャストを聴いた、魚川祐司さんと山下良道さん、藤田一照さんの鼎談のポッドキャストがすぐにリリースされた。

 

活発な討論なので、なかなか、その内容を、きれいに整理することはできないが、いろいろと感じることがあるスリリングな2時間だった。

 

15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話 | 一法庵

 

若干の感情的な応酬を別にすれば、魚川さんの一番強い論点は、山下良道さんが2.0として叩くテーラワーダは本当のテーラワーダではないのではないかというものだったように思う。テーラワーダの中にも3.0的な構えで悟りを目指している人はいると思うと。

 

山下良道さんは、この本の、第6章までは余計なものを一切取り払って、悟り、悟りに向かうとは何かというのを明らかにしてくれた。一法庵用語として使っているものを、きっちりとパーリ語等で整理してくれていると評価している。

 

しかし涅槃というものをどのように体験するかという点で、二人には質的な違いがある。

 

言葉の整理、それぞれの主張の相互理解など、行ったり来たりしながらの対話である。しかも、仏教の教義の細かいところまで言及されるので、素人にはなかなか全体を把握することはできない。

 

しかし、さまざまな点を確認しながら、明らかになってきたのは、涅槃というものを体験するときの主体の問題だった。

 

山下さんが、テーラワーダと遠ざかり、ミャンマーと訣別した理由を、彼は、パオセアドのガイダンスの最終課程にあったと告白する。

 

パオの前提の中に、涅槃を対象視するというものがあり、これは仏陀のウダーナ(自説教)にある涅槃において大事なのは対象がないということに反するものだったからである。

 

自分が躓いたのは、涅槃を対象として見ろという構造だったと。

 

マハシメソッドとパオメソッドの悟りの状況を比較する比喩の応酬は極めて難解ながらドラマチックだった。

 

つきつめれば、今回の対立軸は、テーラワーダ的に言えば、マハシ対パオと言える。しかし、ややこしいのは、そのパオメソッド自体も、上記のウダーナに背反するという点から、山下さん的には修正、質的飛躍を必要とすることだ。

 

午後3時に夢も見ないで眠っているという譬え。

 

マハシメソッドは、午後3時に眠っているという状態を午後6時にわかっているということであるのに対して、パオメソッドは午後3時に夢を見ずに眠っている状態を午後3時の段階で認識している。

 

ここに2.0的わかりやすさと3.0的わかりにくさの違いの原点がある。

 

山下さんは、午後3時の段階で眠っている状況を認識することができるという考え方に立っている。

 

ただし、その段階で、これまでの私がその状態を認識しているというのではなく、その段階では、私という主体は既に変化しているというのが3.0的理解だという主張のように思えた。

 

活発な応酬の中で、整理されることなく、切れ切れの言葉をまとめて想像するということが必要だった。おそらく、今後、今回の議論を踏まえた法話やコラムが書かれることになるだろう。それを期待する。

 

早速、魚川さんの本を、読んでみた。

 

山下さんが90%重なるといっているように、その論旨において大きく乖離するところはないように思えた。ただ、テーラワーダというものの3.0性というものを評価するという構えは強いような気がした。特に、3.0を称揚するために、いたずらに2.0として貶めるほどのものではないのではないかと。

 

一般化すれば、仏教というものはそもそも多様性を内在させているのだから、その多様性に対して優劣をつける必要はないという考え方が繰り返し述べられている。

 

しかし、気になったことは一つ。

 

魚川さんの論理の鋭さ、論理性、直線性と、それと対照的な山下良道流のうねるような論理である。

 

山下良道さんは10年近く、ほぼ毎週、同じことを何度も繰り返し、前言撤回までは行かずとも、言い直してきた。

 

アーカイブも含めて、ここ数年、そのDiscourseにずっとついてきた僕には、その厚みが、論理を超える論理を伝えるために必要なもののように思えてならなかった。この形でしかとらえられない、表現しきれないものを表現しているのだという予感だ。

 

魚川さんが鋭利にこれかあれかと突きつける質問に対して、決してはぐらかしはしないが、立ち止まり、なんとか伝えられない点、行間を伝えようとする沈黙する姿に、過去のポッドキャストの記憶がよみがえった。

 

2008年5月18日 孤独の向こう側へ 生滅が滅し已わった後に

http://data.onedhamma.com/howa/onsei.files/OneDhamma_080518.mp3

 

わからないなりに、僕は、この回の法話に、ある凄みを感じて、繰り返し聴いた記憶がある。ここに大乗仏教というものが立ち上がる論理的な必然性が、自分の経験を交えてリアルに語られていたからである。

 

 

 

まさに、この日の議論が、今、なされているのだと思った。

 

魚川祐司さんの大乗仏教に対する奇妙さという言葉遣いに対する違和感が山下さんの執拗さを駆動したのは、そこに大きな理由があるのだろう。

 

大乗仏教から、テーラワーダを経由して、認識の極北を目指し続ける彼の覚悟が、奇妙さという言葉を見過ごせなかったのだと思う。

 

魚川祐司さんの本は、流し読みすべきものではない深さを持った書物である。それに違いはない。前進しつづける彼の活動は今後も追いかけていきたいと思った。

 

しかし、自らの苦を克服するためには、行きつ戻りつしながら、同じことを別の言い方で語り続ける山下良道流法話の連続性が不可欠であることを結局、深く感じた回になったような気がする。