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21世紀ラジオ (Radio@21)

何かと気になって仕方のないこと (@R21ADIO)

宗教:山下良道、藤田一照 仏教3.0を語る

山下良道さんと藤田一照さんが金沢で仏教関係者を中心に行ったアップグレードする仏教のワークショップのポッドキャストを聴いた。

 

https://pbs.twimg.com/profile_images/501606434417561600/CeIDuFQk.jpeg

 

藤田一照さんの大胆で明快な理論化と、山下良道さんの、繰り返しながら、正しい言葉を探し、言い換え、空隙を埋めていく濃密な語り口が相まって、きわめて魅力的な講演になっている。

 

http://www.club-willbe.jp/column/fujita/images/image1_2.jpg

 

 

対象の中に、仏教関係者が多いこともあって、かなり水準の高い議論がなされている。

 

15/05/21 「アップデートする仏教」を体感しよう! in 金沢 | 一法庵

 

藤田さんは、仏教では概念が二つセットで語られることが多いという点から話し始める。これは人間というものの思考法が、そもそもこういう二分法でできているからだろうと。

 

山下さんの雲と青空もそういう対概念のひとつだ。

 

仏教の中には、様々な対概念が存在している。これは経典によって同じようなことを違う言葉を使って表現しているからだ。

 

盲信と信心

 

無分別心と分別心

 

俗と聖

 

凡夫と仏

 

煩悩と菩提

 

生死と涅槃

 

そして、

 

雲と青空。

 

そもそも初めから対概念として考えられているので、そのうちの片方だけを取り上げて単独で理解することはできない。

 

ところで、世間では、仏教というものが、上の対概念の左から右、すなわち、雲から青空、煩悩から涅槃へと移行することだと意識されている。

 

比較宗教学の可藤豊文先生が、こういった心の二層論を、法蔵館から出版した「神秘主義の人間学」という本の中で、さまざまな宗教を比較して説明している。

 

 

人類の歴史の中で、以前とは全く違う、この二層論的思考が同時多発的に登場した時期がある。

 

仏教では世界と心の在り方は別々ではない。

 

だから盲信に基づく世界と信心に基く世界は同じではありえないことになる。

 

心が二つあるということは、世界も二つあるということを意味するのだ。

 

問題は、この二つの関係をどう考えるかだ。

                                                                                                                     

 

これを考える手がかりとして、藤田さんは、若い仏教研究者の魚川祐司(東大インド哲学卒)

 

「仏教思想のゼロポイント;悟りとは何か」(新潮社)

 

を、批判的に引用する。

 

 

彼の現実性と本来性という形で、仏教をとらえる視点の二分法に対する本質的な批判を、山下さんとともに行っているのだ。

 

 

若き俊英の努力を評価しながらも、実践家としての観点から、その甘さを叩くという健全なボクシングがそこでは展開している。

 

 

なんらかの理由で自分たちが本来あるべき姿ではなく、現実の状態に置かれてしまっているというのが、仏教の出発点だ。

 

現実性、すなわち苦から本来性(涅槃)を目指すことが仏教というプロジェクトである。

 

それを遂行するための手段として、教義や実践が存在する。

 

生成消滅する現象への執着に基づき物語が展開する世間。これを超出して本来あるべき出世間の世界を目指すのが仏教だという捉え方である。

 

仏陀以降の仏教の展開を見ると、この現実性の位置づけにおいて多くの差異がある。

 

魚川は大乗仏教が、本来の仏陀に連なる仏教から大きく逸脱しているという点に疑問を呈している。彼によれば、仏教というものの現実性から本来性へと移行する本質的構えを大きく逸脱しているのが大乗仏教である。大乗仏教は、その意味で、現実性というものに対して、仏陀より大きな価値を見出している。

 

彼はここまで逸脱するのならば、仏教と呼ぶ必要はなかったのではないか、要らぬ論理のアクロバットを避けて、シンプルに新しい宗教を打ち立てれば良かったのではないかと言う。

 

なぜ仏陀が明快に提示した苦から解脱する方法を遂行するのではなく、菩薩などの奇妙な論理を使うことによって物事を複雑にする必要があったのかという疑問だ。

 

「苦から解脱する方法はゴータマ・ブッダによって既に明快に示された以上、サンガを維持してその方法を他者や後世に伝え、自らもそれを実践して苦から解脱する努力をすることが、仏弟子としての第一義的な生のあり方であるはずだということだ。」(P190)

 

魚川の、仏陀の説いた仏教というものの自明性、二分法を、その後、藤田、山下両師が、理論的というよりは、実践的に徹底批判していくという流れになった。

 

宗教の役割は、魚川が明快に整理しているように、左の概念から右の概念、現実性の世界から本来性の世界へ効率的に移行する道筋を教えるものとしてとらえられてきた。

 

藤田さんは、この二世界構造論による宗教把握は賞味期限切れだと切り捨てる。

今後、我々が向かうべきは、一世界構造論だと。

 

さらに、実は、イエスも、仏陀も普遍宗教の創始者たちは、そもそも、こういう話をしていたのではないかと主張する。ただ、当時の人類が理解するには、これは、あまりにも早すぎたのではないかと。

 

一世界構造論とは、本来性というのは、目指すものではなく、今、ここに既に存在しているものだという構えである。

 

これを引き取って、山下さんが続ける。

 

魚川さんの本を紹介する中で、何が問題かが明らかになってきたようだ。

 

この人は自分たちの共通の知り合いで、彼がビルマで修行中にも「アップデートする仏教」を10数冊送った。

 

我々の本を読んで、さらにこの本を書いたとすると、彼は物の見事に、ポイントを外している。しかし、優秀な仏教研究者が間違ってしまうほど、このあたりが仏教理解の難所なのだろう。

 

しかし彼が自分の誤解を論理的な言葉で説明してくれているので、仏教3.0を明らかにするためにはきわめてありがたい本だ。クリアな誤解をしてくれれば、誤解そのものを論理的に修正することができる。

 

さて問題は何か。

 

みじめで苦しい現実がある。このまま、苦しくても、強欲に生きて、パワーを得て、うまいものを食べていればいいやという人生ではなく、全く、違った人生があるということを示したのが、お釈迦様やイエス様。

 

世間というのは上記の対概念の左側のみがある場所。

 

右側の世界があることを示したのがあらゆる宗教者だ。

 

苦しくて仕方がない左から幸せな右へ行くのを助けるのが修行だ。

 

ではなぜ、左の苦しい世界が始まったのか。お釈迦様は、それはお前のせいだという。

 

自分の中の三毒(貪瞋痴)が原因。

 

右へ行くためには、それを取り除けばいい。

 

取り除くための手段には、ヴィパッサナ、マインドフルネス、座禅などがある。

 

非常に明快であり、頭にすっと入ってくるので、みな納得してしまった。

 

じゃあ、本気でやってみてくださいと山下さんは言う。

 

お寺でちょっといい話を聴いたけど、門を出た途端忘れてしまった程度ではなく、本気で三毒を、修行で取り除くということに取り組んでください。

 

物事は中途半端にやっていると本質が見えてこない。しかし極端なことをすると、非常に見えてくるものだ。

 

じゃあ本気でやると何が見えてくるのか。

 

とんでもないものが見えてくる。

 

マインドフルネスがブームだ。最近その総本山のプラムビレッジの人たちがやってきた。

 

左から右へ移動するための手法マインドフルネスの説明は、好き嫌いなしに物事を観察するというものだった。

 

これは禅宗でいう至道無難 唯嫌揀択だ。

 

道は難しくない。好き嫌いをやめればいいのだと言う。

 

しかし言葉だけをもてあそぶだけだったらファンタジーに過ぎないので、さほど害もないが、貪瞋痴を本気で取り除こうとすると大変なことになってしまう。

 

本気でやったら死ぬしかなくなるのだ。

 

なぜなら、我々の存在そのものが好き嫌いだからだ。

 

自分の汚れを取り除けば、好き嫌いから逃れられると思ったら大間違い。

 

我々にとっての好き嫌いというのは、汚れではなく、自分そのものなのである。

 

本気で消そうとしたときに、このことに初めて気づくのである。

 

好き嫌いから逃れるためには、自分の存在を消して、死んでいくしかない。肉体を殺さないまでも、精神的に死んでいくしかない。

 

こういう人たちは、本当にいます、ミャンマーの森の中にはこういう人たちが一杯いますと山下さんは言う。

 

自分はミャンマーに4年いて、アビダンマや、パオセヤド瞑想の方法など多くを学んだ。

おかげで、逆に幻想がなくなった。

 

私が学んだもっとも大事なことは、間違った世界観で修行すると、精神的な自殺に陥ってしまうということだったと。

 

先ほどの魚川さんの本のように、なぜ、大乗仏教というのが一見、本来性より現実性を大事にするように見えるのか。

 

実は、左から右へと移行する(できる)というこの考え方自体が致命的に間違っているのだ。

 

本気で、左から右へ行こうとした途端、左である自分が見えてくる。自分が貪瞋痴でできていることが見えてくる。

 

我々が主張するのは、ありのままの我々は、左であるということだ。しかし、左は、本当の自分ではない。盲信から信心に移動するのではなく、自分の本質である盲信は、本当の私ではないのだ。本当の私は右側の信心なのだ。

 

我々の致命的な間違いは左側を自分だととらえていたことにある。そうとらえる限り、修行は左から右への移動しかなく、それを極端にやれば、死ぬしかない。

 

仏教3.0で見えてきたのは、対概念の左側が自分の本質ではなく、右側にあるのが自分の本質だということだった。

 

我々は青空としてのわたしとして存在している。その上に、雲が存在している。我々の失敗は、雲を自分だと思い込んだことである。雲をなんとかしようとする、雲を消すしかない。

 

しかし自分が青空ということを理解したならば、雲などどうでも良くなる。

 

怒りがわいた時に、怒りの対象を破壊するまで行ってしまうのは、自分の本質を怒りだと思ったからである。

 

しかし今、貪瞋痴が自分でないことを理解した。すると貪瞋痴すべてが力を失ってしまう。

 

お釈迦様は、右側が自分の本質であることを知らそうとしたのだと思う。

 

しかし衆生、あるいはThinking Mindは、慣れ親しんだ二分法でしかとらえられず、左からの右への移動としてしかお釈迦様のメッセージを理解できなかった。

 

大乗仏教はだから、逸脱ではなくて、むしろ本当の仏教を発見したのだと言える。

 

藤田さんはこれを受けて、こういった考えに基づいて、仏教1.0、2.0、3.0を整理する。

 

魚川さんの本が批判すべきは大乗仏教ではなく、仏教1.0である。これは修行を本気でやると、死んでしまうしかないという深い理解などない。ただ経文に書かれた自分の本質は青空だと言葉で言っているだけで、ピンと来ていない状態である。

 

2.0は現実を観ようと、そして左から右へ行こうとする。

 

これまで説明したように、これは世間の世界観とぴったり一致するので、世間に受け入れられる。

 

3.0は2.0的な論理構造は間違っている。自分の本質は右側だからだと考える。そのため修行というもの意味もがらりと変わる。

 

世界観がすべて変わるということをわかったうえでの、マインドフルネスであり、呼吸の気づきなのである。

 

八正道の第一が正見、すなわち正しい世界観を持つことなのである。

すなわち正しい世界観を持つことが正しい仏教実践においてはもっとも重要なことなのだ。

 

藤田さんが参加者の質問に対して答えた中で、いくつか印象的な言葉があった。

 

左から右へ行こうとする動きは理想主義になる。これに対して我々のアプローチは、本来の状態を表現しているという意味で表現主義と言える。

 

理想主義の問題は、理想を邪魔にするものすべてが敵になることだ。お釈迦様も一緒。苦行をしているときには、すべての存在を邪魔者として見ていた。しかし、苦行を放棄したときに世界観が変わったのだと思う。

 

菩提樹に座る前後で、仏陀にどのような革命的変化が生じたのか、その心の動きを理解しないと、仏陀の本当のメッセージは伝わらないのだと思う。

 

二分法に基づく、皆にわかりやすい仏教理解によって、この仏陀の中の革命的な転換が見えなくなってしまうのだ。

 

1.0で修行しなければ、苦という状況は何も変わらない。しかし二分法に基づいたわかりやすいやり方でやると、物事は思わぬ方向に複雑化し、2.0のジレンマに陥る。

 

この中で難しいバランスを取り続けるのが修行であり、だからこそ、面白さがあるのだ。

 

2.0は単なるエクササイズに陥りがちである。

 

今、仏教は手段として重宝されているが、世界観や、主体が変わらない状況で、手段だけ重視すれば、自己疎外が起こってしまう。それが2.0の問題性だ。

 

手段の前に、使う主体の問題が解決される必要がある。

 

山下さんも繰り返し、繰り返し語る中で、自分の言葉を練っていく。

 

1.0は対概念の右を頭で理解しようとか、観ようとしたのでうまくいかなかった。

 

右は観ることはできないが、実感することはできる。

 

左を消すのでも殺すのでもなく、手放すことで見えてくるものがある。

 

左から右への矢印があって、それを一生懸命修行することで移動するのが、仏教なのだ、本来性を掲げたのがお釈迦様という話ではない。

 

自分の本質が右であるということがわかると何が変わるのか。

 

今までは自分を雲と思っていた。雲のままにふしだらに生きるのも、雲をきれいにしようと志す人もいた。しかしそれぞれ雲のままに生きていたという意味で同じだ。

 

雲が本質でないということがわかれば、生き方が変わるはずだ。

 

自分の本質が青空だということがわかれば、青空として生きなければならない。

 

その場合、修行はどうなるのか。

 

我々はずっと雲として生きてきた。それが生み出すHabitual Energy(習気)を生み出している。我々は、これを散々に背負っている。

 

青空として生きるときには、これと全く違った生き方をしなければならない。

 

青空の私として生きるにはどうすればいいのか。それには一つの有効な手がかりがある。

 

慈悲Compassionである。

 

青空の特徴の一つは慈悲である。

 

自分が出会う人々、衆生に対して、慈悲の目で見ることができたとき、自分は青空として生きているのである。

 

これを手がかりとして、青空として生きる方法が見えてくる。

観音経の慈眼視衆生だ。

 

もう一つが流行りのマインドフルネス。

 

しかしこのマインドフルネスがとんでもない使い方をされている。

マインドフルネスがニルバーナに向かう道として使われている。

 

企業社会では、生産性を上げられない社員のストレスを下げるためにマインドフルネスを使っている。

 

一見、良さそうに見えるし、変な抗鬱剤飲むよりはいいのかも知れないが、見事に左から右への二分法にはまっている。

 

マインドフルネスは自分が青空として生きているときの状態を示している。

 

2.0を通ることで非常に豊かな瞑想方法を学んだ。しかしそれを2.0的に利用するとひどいことになる。今、ようやくそれを3.0的に使えるようになってきた。

 

藤田さんは最後にこう言う。

 

修行と悟りを二つに分けてみるのは仏教的ではない。(道元

 

修行すなわち悟りというのは、涅槃の上を歩いているというイメージではないか。

 

一歩一歩涅槃の上を歩いている。踏み出しているところに涅槃がある。

 

本当の学びとは、一生使うようなものを学ぶことにある。歩き方とか言語能力のようなものだ。

 

実は長続きする学びというのは左から右へ行くようなものではない。

 

そうではない学びを行えば、今までにはなかった繋がりや発見が生まれ、今まで違った出会いが生まれてくるようになる。

 

こんな世界観や瞑想をきっかけに3.0的な生き方を考えてみてはどうだろうか。

 

(以上)