映画の時間:原作と脚本のインタープレイ、Wの悲劇、黄泉がえり
2005年10月6日
映画は脚本だ。脚本に時間(お金)と才能が十分にかかっている作品は、最後まで、その魅力を失わない。
人気小説が原作の映画の場合は、元々のストーリーの構築に十分な時間と才能が注入されているので、必要条件は満たされている。
原作を忠実に映像的に再現するというのは、どこか物足りないところがある。
小説家の物語を起点に脚本家がもういちど時間と才能を注入することで、傑作は生まれる。
原作の響きを利用しながら、その求心力から逃れようとしつつ逃れようとせずという風情の映画がある。たとえば1984年の澤井信一郎(荒井晴彦脚本)の「Wの悲劇」。
夏樹静子の「Wの悲劇」を演じる劇団の中で、戯曲を模倣するようなドラマが繰り広げられる。身代わり犯罪が主題の劇中劇と、それを演じる役者たちが宿命的にその物語を反復する中での葛藤。
薬師丸ひろ子は、舞台に立つことを夢見る新人女優である。しかし今回のWの悲劇のヒロイン役は、ライバルで華やかな高木美保が得ることになる。どことなく、冴えない運命。そんな彼女を支えるのは、世良正則だ。
この劇団の主演女優である三田佳子がスキャンダルに巻き込まれる。
彼女のスポンサーだった愛人の政治家が、彼女と宿泊していたホテルで急死したのだ。その身代わりを三田は薬師丸に頼む。
報酬は、ヒロイン役。この取引で女優の栄光を勝ち取る薬師丸。夢に近づいた彼女は、世良を捨てる。しかし栄光の絶頂で、絶望した高木のナイフが・・・。引き起こされた新たなスキャンダルが、真実を明らかにしてしまう。
梶尾真治の「黄泉がえり」という小説は、映画的想像力を刺激する小説だった。
物語を映像的に忠実に再現したいという欲望を喚起するというのとは少々違う。
旅を続ける宇宙知性体が、地球に訪れるところから物語ははじまる。その後、熊本のある地域に、不思議な現象が多発する。
亡くなった人が、その当時の姿で、残された人のもとに戻りはじめたのだ。黄泉がえりという異常現象の中で、さまざまに影響を受ける人々の生活が克明に描かれていく。
小説は、個別の出会いと別れの物語が積み木細工になっている。
塩田明彦の映画は、梶尾真治の映画的構造に触発されながらも、その構造をそのままなぞらない。
原作の提起した前提は以下の通りである。
① 阿蘇周辺で、ある理由で、昔死んだ人が続々と蘇ってくるという異変が生じた。
② 蘇るための条件は、彼らのよみがえりを心から切望する人がいること。
③ 蘇った人たちがこの世にいられる時間は限られている。
④ 蘇った人たちは、この特定地域の中でしか存在できない。
この仕組に乗りながら、映画脚本がそのオリジナリティを発揮する。
小説の中の宇宙知性の個性や情感は後景に退き、厚生科学省の役人と幼なじみとの恋愛という映画オリジナルのフィクションによって、個別の物語を、その役人(草彅剛)の想いを上位において階層化し、愛情を強調することで組み換えている。
九州の阿蘇山の近くの町で、不思議なことが多発する。戦前に神隠しにあった少年が年老いた母親、中学生の頃に病死した兄が成人となった弟のもとへとかえってきたのだ。
その調査で、厚生省の役人の草薙剛が帰省する。彼には、会いたい旧友、竹内結子がいる。草彅の親友で、竹内の恋人だった伊勢谷友介は、事故死している。竹内は彼を忘れられない。
竹内をひそかに想う草薙。山奥で見つかった大きな空洞から出る不思議な波動がこういったすべての奇跡を起こしている。
しかし奇跡の時間は限られていた。死んだ人間が本当に自分のことを想う人のところへと帰ってくる・・・。しかし伊勢谷は竹内のところへは帰ってこない。
この脚本的創造は、映画会社が想定する観客層、草薙剛、竹内結子、田中邦衛という外部要件を前提に、塩田明彦が解いて見せた商業映画という方程式の解のあり方なのだろう。
しかし当然この解は一意的ではない。
この小説の構造上、物語の組み換えによって、一定の範囲内で多様な解が引き出せるのだ。
特に、小説の中では、中核となっているカリスマシンガーの蘇りとファンの想いもまた、塩田の解を引き出すために、前提として180度転倒され、大幅に省略された。この点に関しては、塩田明彦の解に必ずしも満足しない自分にそれでも残るこの満足感は何か。
良い物語というものは、みな、大きな虚構の中で、一部の隙もなくリアリティが流れている。身を切るような想いで別れなければならなかった人が帰ってきた時の想い、そしてその人がふたたび帰っていってしまうとしたら。
老婆となった母親のもとに帰ってきた小さな子供が、神隠しになる直前まで遊んでいた旧友の横で無邪気に画用紙にクレヨンを走らせるシーンがある。
旧友は当然既に初老に近づいている。
この映画には、脚本を書いている犬童一心の「金髪の草原」の傑出したシーンが引用されている。
80歳の老人の痴呆症的主観を映像化した映画の中で伊勢谷友介演じる老人は、若いヘルパーを、自分が20歳の帝大生の時にあこがれたマドンナだと思い込む。
主観的に20歳を生きている老人の姿は、スクリーン上では若々しい伊勢谷が演じている。20歳の時の友人が、伊勢谷のマドンナだった老妻を連れて、訪ねてくるシーンが美しい。
そこには20歳の姿をした老人と若いヘルパーと、年相応になった友人とマドンナがいる。老人の記憶と夢がくいちがいながら、静かに座っている場面。
亡くなった人たちが、当時のままで、想う人のもとへ帰ってくる。無理な出産で亡くなった聾唖者と妻が夫とともに、聾唖学校の教師として美しく成長した娘の職場を訪れる場面、青年が、自分が慕う未亡人が手術を受ける病院で、蘇った夫と、少年の頃に失った最愛の兄(中学生の姿)と語り合う場面。
竹内を愛するが故に、旧友の蘇りを避けようとしながら、最愛のものに最後の想いをかなえさせたい草彅の葛藤。
物語の緻密な論理展開と、映像的なずれの感覚が、記憶と喪失感の大きさをその触覚的な痛みを、強く放射していた。
ウェルメイドな娯楽作品の枠組みの中で、塩田の映画史的、知的刻印がまぎれもなく存在している。
ラスト近く、同じ舞台で演奏している、蘇り、もうすぐ、ふたたび去っていく恋人のキーボードプレイヤーへの想いで歌う歌手(柴咲コウ)の表情と主題歌の響きを聞きながら、ぼくは、澤井信一郎の傑作「Wの悲劇」のラストシーンを思い出していた。
結局、映画は喪失とその記憶を繰り返し、繰り返し語りつづけているのであり、それは同時に、生きるということのような気がした。