Boyhoodは映画的リアリズムの一つのモデル;NYT映画批評 Manohla Dargis
ウェブ上で、英語の新聞が読めるようになったのが、何よりも嬉しい時期があった。インターネットがもたらした途轍もない奇跡であり、驚くべき福音だと感じた。ニューヨークタイムスを日本で読むためには、船便(航空便?)でとんでもない金額がかかった時代を記憶している。
しかし、それがあたりまえの時代になった。しかし、いまだにその奇跡に対する喜びは続いている。
ニューヨークタイムスの映画批評が好きだ。
曇り空の土曜日。体調もあまり良くないので、ゆっくりと、New York Timesの
Manohla Dargisの「映画的リアリズムの範型」という副題のついているBoyhoodの批評を読んでいる。
Manohla Dargis
一つ気にかかっていたこんな常軌を逸した映画作りを誰が資金的に支援したのかということだ。
Dargisは、映画製作者のJonathan Sehringをこんな一行で賞賛している。
The movie was heroically bankrolled from the start by its distributor, Jonathan Sehring of IFC Films
それほど高額予算ではないとはいえ、映画ができるのが、12年後であるプロジェクトを支援するというのは、まさしく、ヒロイックという形容詞がぴったりの覚悟だと思う。
About IFC Films – IFC Entertainment
2002年からリンクレーターは毎年3,4日撮影のために、4人の中心俳優を集めて撮影を続けていった。しかし、この長い期間の間に、彼はBefore三部作の第二弾Before Sunsetを完成させ、Fast Food Nation, Bernieなどの話題作も発表している。
Before三部作に特徴的にみられる、多弁性(とにかく登場人物が、ウィーン、パリ、ギリシアの港町を、饒舌に話し合いながら、歩き回るのだ)は今回の映画では抑え気味である。
マシュー・マコノヒーとの対談の中でも、自分の特徴だと言っていた、Plot中心の映画作りをArtificialと嫌う彼の、映画術は今回の作品でも顕著だ。
「着想においては過激だが、日常生活のディテールの描写においては馴染み深い描き方のBoyhoodはどちらかの伝統に盲目に服従することなしに、古典的映画と現代アート映画のちょうど交差する地点に位置している。これは映画的リアリズムの一つのモデルとなっている。そしてその快楽は明らかだが、同時に、ミステリアスでもある。三度目に観た後でさえ、なぜこれほど、この映画にひきつけられるのかが完全にはわからないし、なぜまた観たくなるのかの理由もはっきりしない。」
秘密は、子供の明らかな成長というものにあるのかもしれないとDargisは続けている。
たしかに世の中、特殊メークアップとCGだらけの映画でいっぱいだ。自然に俳優たちが年を経ていく、その変化を眺めることができるということにはCG映画には決して近づくことのできない眩惑を引き起こさせる魔力がある。
これは映画というものが、そもそもうつろいゆく時間というものを捉えることへの人間の情熱から生まれているという観点からは、原理的に当然のことなのだと。
「アンドレ・バザンは、芸術は、時の移ろいと避けられない存在の衰えに抗う人間の欲望から生まれると書いた。しかしリンクレーター氏の傑作であるBoyhoodにおいて、彼は、毎年、毎年、今という瞬間を確かにその手におさめながら、都度、捨て去っていく。彼は時と戦おうとはしない。むしろ、その流麗で、苦悩に満ちた移ろいゆく美のすべてを抱きしめている。」
空も少し明るくなってきた。
今の気分を抱えて、岩波文庫になったばかりの「映画とは何か」を立ち読みしに行こうかな。