晴れた日には瞑想がしたくなる
地下鉄が地上に出るところで、混雑の中でぎゅうぎゅう言いながら、窓の外を見ると、素晴らしい快晴の空が広がっていた。なにはともあれ、幸福な気分になった。
人生で一番大切なのはやはり心の安定だと思った。
ふっとスリランカなどの小乗仏教であるテーラーワーダ仏教の瞑想の言葉を思い出した。
テーラーワーダ仏教は、ブッダが悟りを開いたあとに周りの人たちに語りかけた言葉を使って、自らの心を冷静に観察する技術論として仏教を説いている。スマナサーラというスリランカのお坊さんが日本で活動をして、多くの本を出しているが、そのドライな語り口は、現実の苦に対して、どのように実践的に対処していくかについてのノウハウに満ちていて、本当に役に立つものばかりだった。
特に、慈悲の瞑想法という、瞑想というには照れるぐらい簡単な方法が、ともすれば悪いサイクルにおちいりがちな自分の心を観察し、安定させてくれた。
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
基本的には、静かな気分で簡単な言葉を、くりかえすだけだ。
私が幸福になりますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いがかないますように
私に悟りの光があらわれますように、
これと同じクールを、私の親しい人々でもくりかえす。具体的な人の顔を思い浮かべながら、となえるのが鍵だという。
このあたりまでは、なるほどというようなものだったが、ここからが、真骨頂である。
これと同じクールを、私の嫌いな人々、私を嫌っている人々でもくりかえすのである。具体的に顔を思い浮かべて、このフレーズをとなえてみると、はじめはかなり抵抗感がある。でも、嫌いな人、自分の心を脅かす人の顔を特定化し、このフレーズを繰り返しとなえると、その不安感自体が客体化されて、その人が自分の心の安定を脅かすことが少しずつ希薄になっていくのである。
現実に、自分の心を脅かしているのは、その人ではなく、その人に対して、私が作り出している、イメージなのだということが、ゆるやかに理解されていく。
実際、このプロセスで、なんとなく、こころがピュアになっていく気がしたから不思議である。
そして、最後のきわめつけは、生きとし生けるものが幸せになりますようにという、クールで終えるのである。
人間中心主義ではなく、生きとし生けるものへの慈しみが、考え方の基礎にある。
地下鉄の中で声に出さずにこのフレーズを繰り返してみた。
私の幸せ、私の悩み、苦しみ、私の願い、私の悟り。
じっくりとかみしめてみると、かなり深い。
自分が幸せに思うのは何で、私は何を悩み、苦しんでいるのか。そして私はどういう状態に生きることを願っているのか。その先にある悟りとはどんなものなのか。
地下鉄の窓の外に一瞬広がる光る空を見ながら、こんな瞬間、瞬間のすべてを愛せるようになれば、ぼくは幸せで、それが私の願いなのかもしれないと思った。