水戸黄門が終わった
水戸黄門というシリーズにいろんな思い出がある。大好きなシリーズだったわけではない。正反対だ。
祖母がファンだった。理由は、はらはらしないで済むから。心配性の彼女は、寅さん映画が大嫌いだった。KYな寅さんが引き起こすハラハラドキドキが嫌だったのだ。
ぼくの中にも、そういう感じがあまり好きじゃない気質が受け継がれている。日曜討論とか朝生などの、なんとも言えない対立図式のようなものが嫌いというのも、このハラハラドキドキが嫌いという気質に発しているのかもしれない。
子供の僕は、はらはらどきどきしないとはいっても、こんなつまらない、毎回、ほぼ同じようなストーリーを繰り返す番組のどこがいいのかと不思議だった。
次の記憶は、若い頃はかなり知的で、モダンだった母親が年老いてきた頃に、祖母とまったく同じ理由で黄門さまを見るようになったことである。
このあたりになると、日本人の血の中にある水戸黄門の呪縛のようなものを感じたくらいだった。
生まれた頃には、時代劇人気など、薄れ始めていて、米国支配下(占領はされていなかったとしても)の、アメリカ映画、ドラマ、ポップスに洗脳されて育った僕たちもいつか黄門の呪縛が現れるのだろうかと、興味半分、恐怖半分で思ったものだった。
思い出のメロディーという番組も、年寄りが年寄りの歌う古臭い歌に感動する番組のどこが面白いと思ったが、ユーミン、サザンなどが続々と初老の域に達する中で、思い出のメロディの内容が、フォークソング、ニューミュージックに変わっていくにつれて、そうだ若者は皆いつか年をとるというあたりまえのことを理解していったりもした。
さて水戸黄門だ。
最後に、ぼくたちが、やっぱり黄門様がいいねえとお茶を飲みながら、目を細めるようになるのかどうか。
自らそのことを試す年代にもう一歩というところで、この長寿番組が終了することになった。
なんとなく、残念である。そして、やはり団塊の世代のあたりとその前には大きなギャップがあったのかななどと推測をしたりしている。