自分の心の中の偏狭さについて
災害から3週間がたった。具体的な傷跡が日々明らかになっていく。そして収拾がつかない原発の問題が、東日本の人々の心理に大きな影響を及ぼしている。
眼に見えないところで、いろんなことが起こっているような気がする。
それは一人ひとりの心の中で生じている。世の中に溢れかえる、一体感を鼓舞するメッセージにもかかわらず、心の中には、実は、ぼくたちは一体ではないかも知れないという不安の方が増加している。
東京も死の灰(radioactive fallout)の影響を受けるということが、自分の心の中にも大きな影響を及ぼしている。
被災地の心配をしながら、結局は、東京が大丈夫かどうかだけを考えてしまう心理。そしてそのことを不謹慎と抑圧する心理。
外国人や、一部の日本人が国外に逃げているというニュースや、疎開がすすむという報道の中で、逃げられないという意識が、不健全なナショナリズム、偏狭的な心理に繋がっていく。
何も、これは誰かの話を評論家的に述べているわけではない。
まぎれもなく、すべてが自分の心の中で生じている。
ある意味あたりまえのことなのだが、ぼくたちが国民の一体感というようなEuhoriaに浸ることがでたのは、長い平時を生きていたからだけなのかも知れない。
多くの災害や事件が起こったが、被災地、対象地域をのぞけば、自分たちの生存を脅かすまでのリアリティを持たなかった。
もういちど一体感を回復する必要があるという点につき、否定する気はない。
ただし、この「一体感」がカバーする面積が重要なのだ。それが狭くなればなるほど、世の中は生きにくくなるからだ。
自分の心の中に芽生えた偏狭さにはくれぐれも気をつけなければならない。それは案外根深く、簡単に、コントロールできないはずだ。